禁断だった南進論
1940年5月にナチスがフランスを占領し、フランスはナチス傀儡政権ヴィシーフランスを樹立。
占領したフランスに名目的にナチスの子分になる政権を与え、フランス人自らナチスの言いなりになるような見せかけをした。
本当のフランスの威信の政権、自由フランスの党首ド・ゴール将軍はイギリスに亡命した。
フランスの軍隊、弱いんだね。
1940年9月27日、日独伊三国同盟締結でナチスと組んだ日本はナチス傀儡のヴィシーフランスの許可取りましたから、とフランスの植民地、今のベトナムに進駐する。
北部が1940年9月22日から
南部が1941年7月28日から
これを開戦前にやっている。満州から南京、ベトナム、南に南に南進論だ。
北部仏印進駐は日中戦争の敵、蒋介石を南方から支援する援蒋ルートを使えなくすることが目的。
南部仏印進駐は外国から徐々に石油など資源の輸入に対する制限がかかり自国で石油を捻出するのが目的。
この時、北部仏印進駐はまだ大きな制裁はなかったが南部仏印進駐の時にドカンときた。
それが
ABCD包囲網の最強化
アメリカ、イギリス、中国、オランダが日本に対する石油、資源の輸出を完全にストップさせ、これらの国にある日本の資産をすべて凍結した。
満州事変ならまだ許せたが日中戦争は外国も黙ってない、みたいな。南に南に南進論はどうもヤバい。
そして開戦してからはイギリス領マレー半島迄、一気に侵すが、南部仏印進駐の効果がまずあった。
南部仏印進駐で占領したベトナムのサイゴン基地とツドウム基地を利用。
この飛行場から九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機、計85機でイギリス東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを水平爆撃と魚雷による攻撃でわずか3時間で撃沈。これがマレー沖海戦。
撃沈した翌日に日本のパイロットが敵とはいえ鎮魂の為に撃沈現場に花束を落とすキザな演出もあったとか、、、(汗)
イギリス東洋艦隊を殲滅した日本軍は更に有利にマレー半島に上陸、首都クアラルンプールを占領し更に南にマレー半島の最南端シンガポール迄侵攻。
ジョホール・バルを抜けてからはたった10日でシンガポールを陥落した。
シンガポールは連合国の総指令部のある難攻不落の要塞と言われていた。
マレー半島上陸からシンガポール陥落まで2ヶ月。
この速さは本当にスゴイもので司令官の山下奉文が「マレーの虎」と呼ばれるようになる。
もはやダンディズムの国の皇太子の戦艦撃沈後に花束投下とか、アングロサクソン相手に黄色人種が高圧的に
「イエスかノーかだけ言え!」
とか(笑)
満州から南京、ベトナム、マレー半島、シンガポールと日本は恐い者知らずの破竹の勢いで南進したが、戦争の相手をアメリカにしたのがいけない。
石原莞爾は天才で、まずは北進論の対ソ連でアメリカは最終戦争の相手だと言っていた。石原の著書「世界最終戦論」はそんな内容。
アメリカの膨大な国力はソ連を飲み込んだ後、に。
石原莞爾は分かっていたのだろう。
イギリス相手のマレー半島攻略だけにしとかず日本は同時期、真珠湾も叩いてアメリカも敵にするが、チャーチル首相からしたら
「これで報復はアメリカがやってくれる!」
と真珠湾奇襲攻撃の知らせをうけた時、大喜び。著書「第二次世界大戦回顧録」に書いている。
イギリスの軍隊もアメリカ頼み、弱い。
わざわざ強い強いアメリカを刺激しに遠い遠い真珠湾迄行かなくて良いのだよ
対ソ連の北に行く北進論のがマシ。
範囲を広げすぎ
対アメリカ戦は慎重にする
タラレバ、だが結果が分かっている現代、最悪のコースを徹底的にやってしまったんだな、とつくづく思う。
アメリカを敵に真珠湾叩く大胆不敵さがあったなら締結したての日ソ中立条約を破棄する大胆不敵さでナチスとソ連を挟撃していれば。
松岡洋右外務大臣がこの日独伊三国同盟、日ソ中立条約の最悪のコースを徹底的に締結しまくったが、彼はナチスがソ連に侵攻したと聞くや
「ソ連を挟撃するべき!」
と、つい先日、日ソ中立条約を締結しときながら自暴自棄になった(笑)
それで近衛文麿内閣から外されたが、松岡の最後の自暴自棄通りにしといた方がまだマシだった。
それだけ南には行ってはいけなかった。