天才の北進論、狂人の北進論

満州事変迄にしとけば良かったが、日中戦争が諸悪の根源だった。

1937年7月7日に起こった盧溝橋事件の首謀者、武藤章満州事変の首謀者、石原莞爾
「私はあなたの満州事変の真似をしただけですよ。」
と、シニカルに言い放ったとか。

簡単にイメージすると

善玉の不拡大方針派、石原莞爾満州五族協和

悪玉の中国強硬政策派、東條英機
その子分、武藤章
→中国大陸の資源の為に逆らう地元の馬賊(張学良)、チンピラ(蒋介石)を倒す!


石原莞爾東條英機の不仲は有名だが、見事にタイプが違う。
天才肌で芸術家気質の石原莞爾
努力型で陰湿で事務的な官僚型の東條英機

石原莞爾は天才肌によくあるエキセントリックな体質で出世街道を要領良く渡れるタイプじゃなかった。
満州事変の後は不拡大方針を叫び過ぎて東條英機に半ば追放のような処遇だった。

に、対し要領を得る機微には長けた小賢しい東條英機
東條は憲兵隊司令官もやったことあるが、庶民のゴミ置き場まであさったことがある、ナチスゲシュタポ同等の執拗さだ。

に、対し芸術家肌の石原莞爾

満州事変は私の作品」

今や軍事行動を"作品"などと不謹慎だが、満州事変迄は実は英米も容認していた。
満州事変直後のイギリスのリットン調査団はなかなか日本寄りの採決だった。

しかし、熱河作戦から上海事変、毎度、自作自演で中国人の犯行のせいにして、軍隊出動させ鎮圧と称し武力制圧。
武藤章は「蒋介石は弱いから叩けば降伏する。」と対支一撃論を唱え、石原莞爾劣化コピーな作戦でとうとう日中戦争まで発展した。


泥沼の日中戦争


ここがスイッチだったな


いや、日本が思ってるより蒋介石はずっと強かった。
実はルーズヴェルト大統領とずぶずぶだった。
蒋介石の嫁の宋美齢、中国の財産の殆どを牛耳っていたと言われる浙江財閥の娘でアメリカ留学経験から英語がペラペラ。
なかなか美人で流暢な英語、留学時代のアメリカ人脈と容姿端麗なチャイナドレス姿でルーズヴェルト大統領、その側近らを虜にした。

そしてルーズヴェルト大統領はとにかく蒋介石を助けていた、味方していた。

中華アメリカ連合軍くらい思ってもよいんじゃないか、日中戦争

強い強いアメリカがバックに、だから

泥沼の日中戦争

だった。


そんな中、なんか中国強いなあ~、やっぱアメリカかなあ~と、空気読む力無く日本は更に破滅への道を進む。


日本はナチスを信じ過ぎた。
バスに乗り遅れるな
と、ナチスの欧州侵略に呼応して急いでしまった。

ナチス・ドイツがフランスを占領したと見るや、まず

北部仏印進駐

この行動も日中戦争の悪影響、蒋介石を助ける英米からの援蒋ルートを遮断するため、フランスの植民地インドシナ(今のベトナムラオスカンボジア)に中国との国境閉鎖を要求。
ナチス傀儡政権となったヴィシー政権、すなわちナチスに要求したような友好感覚だ。
そして1940年8月30日、松岡洋右外相とアンリ駐日フランス大使との間に締結されたのが

松岡・アンリ協定

北部仏印への平和的進駐がこの協定により約束された。

続く軍部も1940年9月22日、西原一策少将とピエール・マルタン仏印軍最高司令官による

西原・マルタン協定

にて軍事的にもフランス領インドシナで日本軍が補給、飛行場の使用と自由行動が出来るようになった。すなわち北部仏印進駐が開始された。


松岡洋右はこの次に本格的にナチスと友好を求める。

1940年9月27日、日独伊三国同盟

なんと、次は

1941年4月13日、日ソ中立条約

節操無いスピードで犬猿ナチスソ連と連続して同盟を組んだ。
松岡だけの世界ではナチスソ連、日本、アメリカの四国同盟が構想されていたとか(笑)あくまで松岡の頭の中だけで(笑)

松岡だけのユートピアで日ソ中立条約はベルリンにヒトラー、リッベントロップに会った帰路にモスクワに寄って締結した。
その時ヒトラーもきちんと
「これからソ連を攻めるから挟撃しましょう!」
って、内心、黄色人種の日本人をバカにしていたとしても日中戦争以上に悲惨な独ソ戦を思うと

ちゃんと協闘を話し合え(泣)



松岡洋右、ヤバいね、この人。
コカインやってた説、どっかで読んだけど。ヤバい、とにかくヤバい。
松岡洋右と日ソ中立条約締結に随行した外交官の加瀬俊一が書いた本に
ヒトラー織田信長スターリン徳川家康。」
と、楽観的に語りながらのベルリンからモスクワへ寄る予定のシベリア鉄道の旅だったと書いてあった。

今やそんな例え、寒過ぎて氷になって固まります。

しかし、現実は日ソ中立条約締結の2ヶ月半後にナチス・ドイツソ連に侵攻。1941年6月22日、独ソ戦勃発。
バルバロッサ作戦の情報、空気読まないどころか身勝手なユートピアに暴走した松岡は無能という表現じゃない、狂人だ。

天才と狂人は紙一重、とは良くいったもので、松岡はナチスソ連に侵攻したと聞くや、急に北進論者になった(笑)
ナチスソ連を挟撃しましょう!

しかし、もはや狂人扱いされ、松岡外しの為だけに第二次近衛内閣は総辞職し、第三次近衛内閣が組閣された。
そして日本政府の南進政策が決定し、南部仏印進駐を果たす。

南方に植民地を持つイギリス、オランダ、アメリカを完全に敵に回した。

その時の陸軍大臣は、第二次近衛内閣に続き東條英機

東條英機と不仲の北進論の不拡大方針者、石原莞爾はその時、行く先々の役職がなぜか続かず、とうとう予備役になり、陸軍を辞め、立命館大学の講師になった。
もちろん、東條英機の嫌がらせだ。


狂人の北進論
天才の北進論


二人共、戦中は日陰にて南進政策の末、破滅していく日本を見ていた。