プロ野球の乱闘並、盧溝橋事件

1937年(昭和12年)7月7日に起こった盧溝橋事件が8年に渡る泥沼の日中戦争の発端とされる。
盧溝橋事件。最初の発砲が何者のしわざか?と今でも多説ある大きな謎だが、日本側の軍部の自作自演とも言われている。満州事変から日本は中国と折衝を起こしたいと言わんばかりな自作自演をやたら起こしていた。


しかし満州事変と盧溝橋事件が違うのは、満州事変が石原莞爾の緻密な計算の元、用意周到に施行され成功した「作戦」なのに対し、盧溝橋事件は下らない些細な食い違いから大変な大騒ぎに、はたまた戦闘状態まで発展させた愚かしい軍事騒ぎ。



盧溝橋とは北京郊外、永定河という大河の川流にある石造の連続するアーチ型の橋で1192年に完成した、日本の鎌倉時代成立あたりからある文化遺産
かのマルコ・ポーロがこの橋の美観を絶賛したという歴史がある。


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1937年7月7日、この文化遺産の石橋の水流の無い状態の原野の北方で日本の支那駐屯軍が夜間演習を実施した。
この夜間演習の最中、発砲騒ぎがあり、日本の支那駐屯軍の1人が行方不明になった。だけの事件。


日本軍の演習は一切実弾を使わない決まりがあり、実弾が発砲されたなら国民革命軍の中国人の仕業か?と大騒ぎに発展。
この緊急事態で支那駐屯軍は全員点呼をすると兵の数が1人足りない。
たった1人でも日本兵が拉致か殺害でもされたか?と大騒ぎになった。

しかし、この程度の事、戦闘になる程じゃないよな。

そしてまず、事態を一木清直大隊長に連絡。
そして一木隊長から警備司令官代理の牟田口廉也隊長に電話連絡。

おお、ここでガダルカナル島ヘンダーソン飛行場奪還作戦の一木清直とインパール作戦牟田口廉也の名前が。
きな臭さを掻き立てますな(笑)

牟田口隊長からまた上の森田徹中佐に事件現場に来て事態収集をするよう要請。
森田中佐を待つ間、牟田口隊長は蘆溝橋近くにある国民革命軍の部隊、宋哲元(そうてつげん)率いる第二十九軍に安全確認のため撤兵を要求。
が、その交渉中の深夜、もう翌日になった8日午前4時過ぎに国民革命軍、第二十九軍から日本軍に迫撃砲が攻撃された。
これに牟田口廉也隊長、国民革命軍、第二十九軍に緊急に武装解除を要求。
しかし武装解除されるどころか更に攻撃され、牟田口隊長、とうとうこれに応戦。
森田中佐を待つ間の戦闘で支那駐屯軍は死傷者10数名、国民革命軍は死者20数名、負傷者は60名以上。


その5時間後の8日午前9時半には国民革命軍、第二十九軍からようやく停戦要求があり両軍は一旦停戦状態に入る。
日本側は兵力を集結し国民革命軍、第二十九軍の行動を監視した。
森田中佐が8日午前に到着し国民革命軍の交渉人と事態収集を図るも、日本側の要求に応えず、また発砲があり交渉決裂、また応戦と小競り合いの戦闘が何回か繰り返された。

とりあえず停戦協定が成立し事態終結したのが事件から4日後の7月11日夜。


なんかこれ、プロ野球の乱闘?(笑)


しかも、まずこの演習、国民革命軍側に言わせると俺たちの土地で無許可で演習するな!
日本側はいや、北京議定書で日本の軍隊はいかなる演習も認められている、の食い違いがあった。

ちなみに盧溝橋付近は国民革命軍が駐留する宛平城(えんへいじょう)とは目と鼻の近距離わずか300メートル。
そんな近距離で支那駐屯軍も演習とは、しかもこの演習の為、兵士を増員してやったとか。

やはり日本側も挑発している。

こんなやってやり返しての小競り合い、プロ野球の乱闘並に笑えるんだが、2017年4月4日の阪神タイガースvsヤクルトスワローズの試合。
ヤクルトのバッター畠山への暴投多すぎの阪神藤浪投手。とうとう畠山に頭部死球スレスレで畠山ブチギレでヘルメット叩きつけメンチカツで藤浪に向かって凄んで行き両軍入り乱れの乱闘騒ぎに発展。
両軍もみくちゃの中、阪神の矢野コーチがヤクルトのバレンティン選手をハイキックした、いや先にバレンティンが矢野コーチをどついた、それで殴り合いに発展、阪神、金本監督もヤクルト真中監督も鬼の形相で抗議、で、両軍もみくちゃ、もう、わけわかめ両軍もみくちゃ、無茶苦茶の警告試合
何故か退場は矢野コーチとバレンティンで畠山と藤浪は許されたなんかわけわからん



そのレベルだね、盧溝橋事件。



プロ野球の乱闘は野球ファンを血湧き肉躍る歓喜に湧かせるが、盧溝橋事件は大戦争の発端となった。 
8年も続く日中戦争の、そして日中戦争があるから太平洋戦争になったんでね。


いやはや


ちなみに演習中に居なくなった1人の兵士、便所に行って戻って来たら大変な騒ぎになっていて戻るに戻れなくなっただけらしい。