盧溝橋事件の派兵声明

盧溝橋事件のいざこざの最中、最初の発砲による戦闘状態の報告は翌7月8日午前中には参謀本部に電報で連絡が行き、参謀本部から内閣、近衛文麿首相まで行って事件から4日後の7月11日には閣議決定による北支派兵の政府声明となる。


4日って、早過ぎやろ。


泥沼の日中戦争といい、地獄の太平洋戦争といい、始まった戦争はずるずるとやめられなかったが、始まりは瞬殺。

ちなみに便所に行っていた一兵卒はその後、戻って来て、問題解決。
発砲に対して文句があった、ということだが、グダグダした小競り合いで対応して、理性的な大人なら、国民革命軍側に強硬に撤兵要求するのではなく自軍が演習終了と撤兵すればよいのだ。
事件に対する交渉はその後、落ち着いてから。

レベルがプロ野球の乱闘や八百長プロレスだが、これは観客を喜ばす為にあえて笑かしてくれるレベルでデッドヒートしてるんだけど、盧溝橋事件は政治だ。

時の首相は近衛文麿。日本の貴族で一番位の高い公爵で、五摂家筆頭の近衛家の出自。
同じく公爵の元老、西園寺公望の推薦で首相に就任した。この時45歳。首相にしてはまだ若い。
若い、貴族、ハンサム、高身長、高学歴、まさにプリンス中のプリンス。


で、貴族院議員てーのは、政治の民度を上げる為にあるんじゃないのか?
どうもそうじゃなかったようだ。

元老の権威が働いた明治、大正時代ならまだ落ち着いた大人の対応が出来ていたろうに。

最後の元老、西園寺公望は盧溝橋事件の1937年時には87歳。
ちょっと、意見を言うには、通すには年齢的に無理だったか。


後の戦後にマッカーサー
「日本は12歳の子供だ。」
と言われてしまったが、まさに盧溝橋事件の対応の仕方は12歳のガキ大将のレベルだ。

特に関東軍、陸軍だが、石原莞爾と多田駿くらいか、陸軍で不拡大方針だったのは。

石原莞爾はフツーに理性的で建設的な考えを持つ常識人だよ。
しかし、当時の陸軍があまりに思い上がりが甚だしい12歳のガキばかりで、石原莞爾が際立った天才になってしまう。
あの時代に集団の空気に呑まれず、自分の理念を正しい方向に貫けた奇特な人物。

石原莞爾満州事変は満州建国による貧しい日本人、特に石原の出身、山形県など東北地方の貧困問題の解決策だった。

あまりに回りが軍事行動バカばかりで建設的な石原莞爾の王道楽土、五族協和が際立った天才になる。

満州事変も国際的に問題にされたがリットン調査団の言うこと聞いて、軍事撤退して発展だけに専念すれば良かった。

しかし、12歳のガキには、それじゃあつまらない。

暴れ回れるチャンスを今か今かと伺っていた。

当時、石原莞爾の部下、参謀本部作戦課長の武藤章は盧溝橋事件を聞いて
「愉快なことが起こりましたね。」
と、面白がって嘲笑ったとか。武藤章の「対支一撃論」は日本史Bにも載ってるな。
上の陸軍大臣杉山元もこの時の近衛内閣の五相会議で、止めれば良いものを拡大派に理解を示し派兵決定に導いた。
杉山元は「便所の扉」というあだ名があった位、簡単に開く時勢に流されるだけのイエスマンで有名。典型的な立場保全の為に自分の意見を持たない上役だ。


逆に自分の信念が強烈な石原莞爾は近衛首相に直訴という大胆な行動をとった。
「北支の日本軍は山海関の線まで撤退すべきです。そして首相自ら南京の蒋介石と直接会見してほしい。これには自分も随行する」
と訴えるも拒絶される。

強硬派の勢いは強く、逆に石原の方が中国に居る日本人居留民保護と5500人の日本兵への"安全保証"という名目に説得されてしまい、しぶしぶ派兵決定案に承諾した。
自衛隊も自衛、と防衛で言われたら、軍隊も安全保証でしょう。

まあ、東條英機の圧力だわ。

しかし、石原莞爾の本意は疲弊と消耗の戦争ではく建設的な満州国の運営による王道楽土、五族協和だった。
石原莞爾の正義感、役的にカッコ良いよ。

しかし、人間の一生で見ると石原莞爾はここから廃れて行く。
主流である拡大方針の東條英機に左遷のたらい回しの目に合う。
まずこの後、関東軍参謀副長に左遷され再び満州の地に。そして東條英機のいる関東軍だ。
石原の作戦で造られた満州国は決して王道楽土、五族協和ではない、東條英機が参謀長である関東軍と阿片と財閥の癒着で汚れた姿だった。
まさに、東條らしい嫌がらせだ。
理想に燃える石原に、現実はこうだ!と教えんばかりの左遷。
不拡大方針の石原は軍需景気狙いの財閥、日産コンツェルンからも嫌われ満州を去る。
次の左遷先は内地、京都府にある舞鶴要塞司令官。
そしてまた移動、同じ京都府にある第16師団長。
師団長って、中将の石原が師団長。しかも留守役だったとか。
学問好きな石原には読書タイム三昧だったらしい、って、それはもはや軍人にとっては洗濯物も無い物干し竿だな。

この扱いに耐え兼ね陸軍を退職し太平洋戦争中は京都府よしみか立命館大学の講師に呼ばれ評論家として戦局を見つめるだけだった。


一方、東條英機は盧溝橋事件の時、関東軍参謀長で後、第一次近衛文麿内閣で陸軍次官。
この時にも不拡大方針者の蹴落としをやっている。
参謀次長の多田駿を板垣征四郎陸軍大臣に圧力をかけ左遷させた。

第二次、第三次近衛文麿内閣にて陸軍大臣
そしてとうとう己が総理大臣になる東條英機内閣誕生。なんと内務、外務、陸軍、文部、商工大臣兼任と6つの役職を1人で兼任。
そして開戦し大日本帝国滅亡。

東條英機極東国際軍事裁判の目玉扱いにされ、唯一、最初から絞首刑決定の戦争犯罪者にされた。
人生波乱万丈、ドラマチックさなら石原莞爾よりはるかに上だ。


武藤章と便所の扉の杉山元もなかなかドラマチックだ。
武藤章は開戦時には軍務局長まで登り詰めたが、しかし、開戦してからヤバいことに気付いたまだまともな人物で早期講和を主張し東條英機に嫌われ更迭された(笑)。あれだけベタベタな仲だったのに。
しかし東條英機、戦争したがらない人を蹴落としまくるな(笑)
国力の差で一目瞭然、アメリカとの戦争は早く止めてナンボでしょうに。

そんな東條英機により仲違い後にはマッカーサーが上陸した後の最悪の戦局のフィリピン、ルソン島の前線に送られた。
ここで武藤章は統制派の東條英機皇道派で嫌われていた山下奉文と第14方面軍で一緒になるのだが、また何か東條らしい嫌がらせ感が漂う。

ルソン島終戦し、武藤章は東京の極東国際軍事裁判に戦犯として呼ばれ、かつて満州時代の部下、田中隆吉の証言でかつての罪状が散々暴かれ絞首刑に。
絞首刑判決7人の中、一番若い56歳。
かつて盧溝橋事件を
「愉快なことが起こりましたね。」
と嘲笑ったことが、この様。


杉山元は戦後、妻に
「あなた、自決しなさいよ。」
と、言われ自決。
その後、杉山の嫁も自害した。
嫁さんはなかなか良くわかった、出来た人だったようだが杉山元は最後の自決までも人の言いなりだったのだな。


近衛文麿は戦犯に呼ばれてしまい青酸カリで自殺。


逆に石原莞爾は戦犯にはならず重要参考人だった。
石原の郷里で現住所の山形県酒田市の臨時法廷で
「根本的にアメリカのペリーやハリスが悪い!」
「私が満州事変の首謀者なのになぜ戦犯じゃない!」
と、言ったとか?伝説がある。
石原にはもう少し頑張ってほしかったが、終戦から4年後の1949年8月15日、なんと終戦の日に永眠。

満州事変の首謀者が終戦記念日に永眠とは運命的だ。