第一次近衛文麿内閣

1937年6月4日に発足された第一次近衛文麿内閣

総理大臣、近衛文麿
外務大臣広田弘毅
陸軍大臣杉山元
海軍大臣、米内光正

内閣書記官長、風見章


発足1ヶ月後には泥沼の日中戦争を始める、すなわち地獄の太平洋戦争への系譜、大日本帝国滅亡へのスイッチを入れてしまった魔の内閣だ。

極東国際軍事裁判広田弘毅が7人中、唯一の文官の絞首刑判決なのは、この時の近衛文麿内閣の外務大臣であったことだろう。

すなわち、本来は近衛文麿が請け負う生け贄役を、近衛が裁判前に自殺してしまったことにより広田弘毅に代替えしてもらった訳だ。
日中戦争の停戦の最大のチャンス、ドイツに仲介を頼んだトラウトマン和平工作を破棄、これは軍部大臣現役武官制の復活と同様に広田弘毅の絞首刑判決の決定打の一つだろう。

1937年、ドイツは既にナチスだったが、中国と日本を両天秤にかけていた。

仲介を頼むのにイギリスは香港の植民地問題で中国寄りだから×
アメリカは、1929年の世界大恐慌の影響で×
ソ連は、日中戦争が停戦したら今度は日本が自国側に攻め込むことを恐れるから×
ソ連に関しては盧溝橋事件はコミンテルン支部中国共産党の陰謀説、はたまた日中戦争仕掛人スターリンだった説があるくらいだから、和平工作の仲介なんか絶対にやってくれないよな(笑)


で、両天秤のドイツが仲介には最適だった。


ドイツは1933年からヒトラー総統のナチスに政権が代わり1930年代前半からは中国に軍事顧問を派遣するなど、国民政府と軍事的に繫がりを持っていた。
1933年5月にはドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトが蒋介石の軍事顧問に。
1935年にゼークトが蒋介石に不信感を持ち帰国すると次にファルケンハウゼンが軍事顧問となった。
1937年の第二次上海事変の作戦計画を作成したのはこのファルケンハウゼン。
第一次世界大戦塹壕戦を教訓とした
「ゼークト・ライン」
と呼ばれる防御陣地を国民革命軍に教授した。
(しかし、第二次上海事変で日本軍に簡単に突破された・笑)

しかし、1936年11月25日、広田弘毅内閣で外務大臣も兼ねた広田弘毅により日独防共協定が締結されると、ナチスは中国より日本との同盟関係を重視する方向へと見直された。
中国への援助も継続しながら日本との間でナチスは大きく揺れていたが1938年にリッベントロップが外相に就任すると日本重視の姿勢が決定的となった。
そして中国からナチスの軍事顧問団は完全撤収することになる。
ちなみにファルケンハウゼンは蒋介石に思い入れがあったか、この撤収でナチスに否定的になり、その後ヒトラー暗殺計画に関わり強制収容所送りになる。そして更に終戦してからは連合国側からも戦争犯罪人にされるという不遇続きだった。蒋介石とは死ぬまで交流があったとか。

日本にとってはここからがナチスとの蜜月、日独伊三国同盟へのリズムに変わる。
という事は、日独防共協定の締結をした広田弘毅内閣が基礎を作ったと思われても仕方ない。広田弘毅の汚点ここにも。



日中戦争の最中、ドイツが日中間で揺れる1937年9月、不拡大論者の参謀本部第一部長の石原莞爾は部下の馬奈木敬信中佐に駐華独大使オスカー・トラウトマンに接近するよう上海へ向かう指示を出した。

ドイツに和平工作を仲介してもらう工作活動だ。

馬奈木敬信はドイツの参謀本部員、ドイツ大使館付武官補佐官、諜報担当(馬奈木機関)のベルリン駐在とドイツとの関係が深く、駐日独大使ヘルベルト・フォン・ディルクゼン、駐在武官オイゲン・オットと親交がある人物でオスカー・トラウトマンともベルリンで補佐官をしていた時代の友人だった。

そして不拡大方針の石原、馬奈木らで和平工作の段取りをし、1937年 11月2日、第一次近衛内閣の広田弘毅外務大臣が駐日独大使ディルクセンを介して交渉を開始。

広田外相は
「ドイツが中国に和平を促すなら歓迎する」
とした上で
(1)内蒙古自治政府を設立する
(2)華北は一定の条件のもと中国に行政権を委ねる(3)上海の非武装地帯の拡大
(4)排日政策の中止
(5)共同防共政策の推進
などを示した。

この日本の和平条件を駐華大使トラウトマンから蒋介石へ伝達するまで話は行った。

蒋介石は1937年11月にブリュッセルで開催された九カ国条約会議に出席中で日本の侵略を訴えていた。

会議で訴えている蒋介石から返事の来ない最中、1937年12月13日になんと蒋介石の本拠地、南京を日本軍が陥落してしまう。

そして更に横暴にも近衛内閣は南京陥落により講和条件を一気に拡大した。
満州国の承認」と「賠償の要求」を加算。

この賠償と領土割譲を含む高圧的な和平条件を更にトラウトマンを通じて蒋介石に12月26日に通告。

もちろん蒋政権からは回答はなかった。

そして1938年1月14日の閣議が交渉打ち切りを決定。
調停は不成功に終わった。
この交渉打ち切りの時、1938年1月16日に発表した第一次近衛声明
「国民政府を対手とせず」
日本史Bにも載っている近衛文麿首相の有名な文句だ。



そして南京陥落の時に中支那方面軍が起こしたアレ。

現在、南京事件の大虐殺は捏造か?被害の誇大妄想か?は多分、この思い上がりへの報復だな。

トラウトマン和平工作最中に南京陥落、南京事件と横暴かつ無神経な行動が広田弘毅にも責任が及んだのではないだろうか?もちろん本来の責任は首相の近衛文麿なんだが。


ちなみに、石原莞爾は馬奈木中佐をトラウトマンに会わせる為、上海に行かせる命令をくだした直後に参謀本部第一部長を解任された。
そして9月27日に満州国関東軍参謀副長へ転出となった、東條英機が参謀長の。
不平分子は棟梁の目の付くとこへ、か?


この第一次近衛文麿内閣とは、下らない事件で簡単に派兵を決定し、なんだかだと和平工作を工面しては流産させ、ようやく工面した和平工作の最中に蒋介石の置く首都、南京を陥落し条件の釣り上げを行う、結局中国との戦争を継続したかったとしか思えないものだ。


若く背の高い容姿端麗な一番高い位の公卿の総理大臣の初業務は日中戦争の勃発と継続だったんだな。