プロイセン参謀本部

百日天下の時、ナポレオンは自分は負ければ後が無い自覚はあったのだろうか?
部下との連係がエルバ島に追放される前と同じではダメだという自覚はあったのか?
戦争犯罪人としてエルバ島に追放され、ウィーン体制に逆らう、いわばクーデターで脱出した百日天下だ。
部下は王政復古したブルボン王朝でも役職をもらえて、困っていない。
困っているのは


ナポレオン自身。


時は既にオーストリアメッテルニヒ宰相が実権を握るウィーン会議で回っており、ナポレオンのエルバ島脱出に対し、オーストリアプロイセン、ロシア、イギリスで第七次対仏大同盟を組む。


そして、ワーテルローの戦いに発展していく。


もはやナポレオンはウィーン会議、欧州全土の無法者。 

映画「ワーテルロー」でも望遠鏡で見えるナポレオンの姿を
「あれがヨーロッパの大泥棒か。」
とイギリス軍のウェリントン公とピクトン中将が偉大な人物を見る珍しさに蔑んだニュアンスを交えていたが、歴史の無い家柄の皇帝は大泥棒扱いなんだな。


結果、大泥棒は敗戦し、更に厳しい追放、南大西洋にあるセントヘレナ島のロングウッド・ハウスという一軒家で、ほぼ幽閉生活に処された。
ヨーロッパのイタリアに近いエルバ島の領主なら宮廷で貴族として文化的には暮らせたのに。


しかし、ワーテルローでナポレオンに付いて行った元帥、将軍は後々、許されてそれなりに処遇されているんだな。

参謀総長のスールト元帥、ナポレオンをして「ヨーロッパで最も優れた戦術家」
と、言わしめたわりにはワーテルローの戦いでは、プロイセン軍追撃の命で出てったグルーシー元帥の軍隊を呼び戻すのに、たった一騎しか連絡に出さなかった。
この一騎が途中、大雨のぬかるみで落馬し連絡ができなかったというマヌケ(泣)。

普通は途中、何があるか分からないのだから十数騎は出すよな。

ナポレオンの指示のおおざっぱさが見て取れる。またはスールト元帥のやる気のなさというか、懸命さが感じられない(笑)。

こんなスールト元帥、ワーテルローの後、紆余曲折あり結局は王朝に許され元帥に復活し名誉職のまま大往生する。


プロイセン軍を追撃しに行って、ワーテルローの現場に戻らなかったグルーシー元帥。
映画「ワーテルロー」でもナポレオンから高圧的に
グルーシープロイセン軍の追撃に向かえ!」
と命じられ
「何通りか道筋がありますが…。」
「つべこべ言うな!向かえ!」
と、機敏性だけ求められ、一体、どのルートから追撃すれば良いのかハッキリしないまま向かっていた。
この高圧的なナポレオンの態度でグルーシーは萎縮したのか開戦の発砲がワーテルロー方面から聞こえても、あくまでも自分の受けた命令はプロイセン軍の追撃ですから。と、知らんぷりしたことになっていた(笑)。

このグルーシー元帥は敗戦後、一時は処刑を考えられたが、アメリカに追放され、ルイ18世に許されるまで亡命していた。 
結局は許されフランスに帰国し、やはり元帥に回復出来た。


ネイ元帥とミュラ元帥は銃殺刑だった。


ウィーン会議の無法者になったナポレオンが部下に以前の忠誠心を要求するには低頭な姿勢が必要だったのでは?
王政復古したブルボン王朝でも役職があり困っていない部下は、ウィーン体制の反逆者でありながら以前と同じように皇帝と威張るナポレオンに

アンタ何、偉そうにしてんだよ?

しらける理不尽が沸き上がる、想像に解するな。


もし、ナポレオンが低頭に部下に接していれば赤穂浪士の如く忠誠心で戦ってくれたかな?
いくらキレキレの天才でも連係がなければ運営仕切れない。忠誠心が欠落した時、天才1人で持たせた軍隊の破綻が起きたのだ。

別にアンタのために頑張らなくても…




プロイセンは違った。
プロイセンを大国に発展させたフリードリヒ大王の上からの改革、啓蒙思想とカント哲学というのが効いたらしい。

プロイセンはナポレオンにイエナ・アウエルシュタットの戦いで敗戦、そしてナポレオンがプロイセンの首都ベルリンに入城し、ここで大陸封鎖令を発令(ベルリン勅令とも呼ばれる)。
プロイセンはもちろんイギリス以外の欧州の国、すべてが無条件にこの発令に従うことになり経済制裁を受ける。
更にプロイセンは敗戦により、かなりの賠償請求を呑まなければならない。
まず多大な賠償金の支払い。その支払いが完済するまでのフランス軍の駐留。プロイセン軍の人数制限。
領土の半分を割譲、その内に緩衝地の名目でヴェストファーレン王国というナポレオンの傀儡国家が置かれ、しかも国王はナポレオンの弟。
ポーランド分割をロシア帝国オーストリア帝国プロイセン王国で三分割していたが独立され、フランスの同盟国ワルシャワ公国として成立。


この窮地に政治家のシュタイン、ハルデンベルクがフリードリヒ大王に習い、上からの大幅な改革を行う。
農奴制の廃止、財政再建、自由営業の許可など、フランス革命の血と汗の結晶、人権と自由、平等意識を上から自ら実行した。
シュタインのこの大胆な改革はナポレオンに睨まれ宰相を解任され、シュタインはロシアに亡命。ハルデンベルクが後を継ぐ。

フランス革命がブルボン王朝の人権を超越した搾取と傲慢さへの反発が原動力なら、プロイセンはナポレオンの圧制が原動力だった。

そこにはプロイセンの哲学者カントの
「理性の哲学」
というのが影響しているらしいが、哲学からの改革というのがお堅いドイツ人らしい。
カント哲学の研究者で哲学者のフィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」という演説で民族意識を高める作用もあった。


軍制の面では革新派軍人シャルンホルストグナイゼナウクラウゼヴィッツらにより改革がなされ参謀本部を設立。

渡部昇一の「ドイツ参謀本部」に詳しいが、この革新派軍人達は時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世からは「ジャコバン派」と呼ばれ蔑まれながらも改革に勤しんだ。

ジャコバン派ってフランス革命ロベスピエールの過激派政党だよな。

王室や貴族には庶民を解放する改革は都合が悪い。
しかし、庶民を解放し自由にしなければ、経済も軍隊も良くならない。
庶民にも豊かさと教育を与え、徴兵制にし競争で軍部での出世の機会をも与える。
庶民でも偉い人になれるかも?

ナポレオンと、やり方一緒だ。

シュタインがナポレオンに追放されたように
シャルンホルストは先に戦死するがグナイゼナウワーテルローでナポレオン軍を撃滅する快挙も戦争が終結すると、この急進思想を国王に危ぶまれ不遇を受けた。

しかし、その思想はカント哲学を軸にボイエン、グロルマン、クラウゼヴィッツにより熟成されドイツ帝国の時代には参謀総長モルトケと宰相ビスマルクというゴールデンコンビで開花する。
と、渡部昇一のドイツ参謀本部には書いてあります。


グナイゼナウはフリードリッヒ大王の戦術を参考にしながら、天才ナポレオンに負けて勝つ、戦法を編み出した。
負けるにしても、最小の被害で、次に繋げる行動をとる。
野球でいう犠牲フライ、バントや盗塁みたいな小技プレーを研究したんかな。被害が最小の内に退却し、次に繋げる。

リニーの戦いで敗戦したが激戦を避け即、ワーヴルというワーテルロー(イギリス軍が布陣する場所)に向かえる地点に退却する。
敵には敗走したと欺き、挟撃に、再び攻撃に現れる。


ナポレオンという天才の傲慢に崩壊した組織に、参謀本部という緻密な連係プレーが出来る組織が勝った。




日本の野球が日本を舐めて慢心した大リーグに勝ったような(笑)。





ドイツの戦艦にシャルンホルストグナイゼナウというのがあるが、プロイセン参謀本部創業者の名前からとった。
大和、武蔵と同型の戦艦らしい。


ちなみにドイツの客席のシャルンホルストミッドウェー海戦で主力空母4隻失った日本が焦って買取り、空母神鷹(しんよう)として改造した。