ナルヴィク攻防戦

f:id:jzenzen:20200719231209j:plain


1939年、9月1日、ナチスポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発。
イギリスのまだ海軍大臣だったチャーチルは、相互援助条約があるポーランドに援軍は出さなかったがノルウェーのナルヴィク不凍港は気にかけた。

ナルヴィクの近くスウェーデン領キルナという町からは鉄鉱石が産出されナルヴィクの港からドイツに大量に輸出されている。


第一次世界大戦の時はドイツ海軍は中立国の遠慮からノルウェーの港湾を利用しなかった。

ヘルゴラント海戦
ドッガーバンク海戦
ユトランド沖海戦

イギリスと北海で何回か海戦をやっているが、ユトランド沖海戦は引き分けだが一度も勝てなかった。

第一次世界大戦の時、ナチスのエーリヒ・レーダー海軍提督はフランツ・フォン・ヒッパー中将の指揮下で敗戦しノルウェーの港の重要性を痛感し今回の戦争にはノルウェーに海軍基地をもうけたいとヒトラーに意見具申していた。


それはチャーチルも同じだった。


1939年11月30日、ソ連フィンランドに侵攻、冬戦争が勃発。
ソ連ナチスと1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結しており、イギリスのチャーチル海軍大臣は言いがかりが出来たとばかり、フィンランド軍の援軍の名目で中立国であるノルウェースウェーデンを軍事目的で通過し、どさくさ紛れに不凍港ナルヴィクを抑えた。
鉄鉱石の資源の産地スウェーデンのキルナも抑えた。
R4計画という。

チャーチルのR4計画はとりあえず成功した。


そこでヒトラーはようやくレーダー海軍提督の意見具申の意味に気付き、ノルウェーに侵攻する決断を下す。

ちょうど良い言いがかりの事件があった。
1940年2月16日、ドイツのオイルタンカーのアルトマルク号をイギリス海軍が拿捕する事件がノルウェーの領海で起こる。
アルトマルク号事件という

大西洋で通商破壊工作をしていた装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーによって沈められた商船から出たイギリス人捕虜が装甲艦シュペーがイギリスに撃沈されたため同行していたアルトマルク号が捕虜を受け入れドイツに帰航している最中に、今度は逆にイギリスに拿捕され、ドイツ人が数人殺害されたのだ。それがノルウェーの領海で起こった。


ナチスは早速、ノルウェー侵攻の作戦を国防軍からファルケホルスト陸軍大将を呼び立案させた。


都合良くノルウェーにもファシストがいた。
ヴィドクン・クヴィスリングという政治家でノルウェーを占領した後の傀儡国としての統治も用意出来た。

しかし、ノルウェーは中立国だというのに、ファシストが居たんだな(泣)。


ヒトラーファルケンフォルストの立案を裁可し、ノルウェー侵攻作戦ことヴェーゼル演習を実行させた。

ヴェーゼル演習はドイツ国防軍の海軍と陸軍、空軍の三軍の協力体制で実行された。

日本ならマレー作戦の第25軍、陸軍の山下奉文と海軍小沢治三郎のような、協力体制でナチスの海軍駆逐艦が陸軍の山岳猟兵部隊の上陸を担当した。



冬戦争はソ連が勝ちフィンランドソ連の占領地になり、連合国はノルウェースウェーデンに軍事介入が出来なくなった。チャーチルのR4計画も名目を失った。

R4計画が無駄になったチャーチルだが、しぶとくナルヴィクを狙い、ノルウェーに名目的に軍隊を居残らせ、ナチスが侵略してきた場合の艦隊をセットしていた。

チェンバレン首相の融和政策に対しチャーチルの執念も凄いな。



1940年4月10日に第一次ナルヴィク海戦
4月13日に第二次ナルヴィク海戦


二回やります。


一回目はイギリスの第2駆逐群、ハーディ、ホットスパー、ハヴォック、ハンター4隻と第20駆逐群の駆逐艦4隻がシェトランド諸島からナルヴィク湾内に機雷を敷設するウィルフレッド作戦を実行。
機雷とは海中版、地雷だよ。
当たれば爆発します。
そんなことするチャーチル機雷(キライ)になる。(笑)
よってノルウェーからは連合国イギリスとは言え不快感、不信感がつのり、ノルウェー自国の軍隊もナチスもだがイギリス軍にも拒絶反応が起きた。

しかも重要拠点ナルヴィクに限ってファシストの政治家クヴィスリングの息のかかった軍隊が守備していてドイツの駆逐艦10隻
ヴィルヘルム・ハイドカンプ
ゲオルク・ティー
ハンス・リューデマン
ディーター・フォン・レーダー
ヘルマン・キュンネ
アントン・シュミット
ヴォルフガング・ツェンカー
エーリッヒ・ケルナー
エーリッヒ・ギーゼ
ベルント・フォン・アルニム
で上陸成功するエデュアルト・ディートル少将が率いる第139山岳猟兵連隊の兵士約1,900人を簡単に受け入れてしまった。

しかし、ディートル少将の山岳猟兵連隊を運んだドイツの駆逐群10隻は帰りにはウィルフレッド作戦を実行したイギリスの駆逐群と湾内で遭遇し交戦になった。
イギリス駆逐艦の魚雷攻撃をうけドイツの駆逐艦2隻ヴィルヘルム・ハイドカンプとアントン・シュミットが沈没。
イギリスの駆逐艦も2隻、ハーディーとハンターが沈没。
結果、物資補給が出来なくなったドイツは不利になった。
両軍の指揮官も戦死した。

二回目はイギリスの戦艦ウォースパイトと駆逐艦9隻からなる艦隊でナルヴィク港で待ち構え、第一次ナルヴィク海戦の残ったドイツの駆逐艦8隻を全て撃沈、全滅させた。

よってディートル少将が率いる第139山岳猟兵連隊の兵士約1,900人はナルヴィクに孤立してしまった。


日本もアメリカとソロモン諸島ガダルカナル島を巡ってソロモン沖海戦三回やりました。
他にも物資補給の駆逐艦
サボ島沖海戦
南太平洋海戦
ルンガ沖夜戦
夜戦って敵の目が暗闇で欺けるから夜を狙ったという健気さ(泣)。

そして諦めソロモン諸島からの撤退作戦(ケ号作戦)だけは成功した(泣)。


しかし、ナルヴィク海戦の場合、勝っていたイギリスの方が撤退しなければならなくなる(アルファベット作戦)。
ドイツがフランスに侵攻し、イギリスは連合国のイギリスへの撤退(ダンケルク撤退作戦)を助けなければならなくなった。

その後、ドイツはナルヴィクはもちろんノルウェー全土を占領し、ファシストのクヴィスリング首相の傀儡国家が1945年5月7日のドイツ降伏調印まで続いた。


ノルウェーではクヴィスリングの名前は「売国奴」の代名詞になった。
クヴィスリングは戦後、軍事裁判にかけられ銃殺刑に処された。

歴史群像 2013年 02月号 [雑誌]

歴史群像 2013年 02月号 [雑誌]

  • 発売日: 2013/01/05
  • メディア: 雑誌