ガダルカナル島撤退問題

1942年8月7日にほぼ完成していたルンガ飛行場をアメリ海兵隊に瞬殺で奪われ、奪還作戦で一木支隊、川口支隊など人員を動員したが失敗、島に残った人員の補給も、敵の目を欺く夜間にひっそりと鼠輸送(駆逐艦)に蟻輸送(大発)、モグラ輸送(潜水艦)とけなげな努力も失敗。
戦艦でガダルカナル島の飛行場に艦砲射撃を試みるも、逆に戦艦比叡、霧島が撃沈され、民間船の徴用もやったが、ことごとく撃沈され続け、もはや連合国の物量には勝てなかった。


もうガダルカナル島から撤退するしかない。


しかし参謀本部の田中新一、第一作戦部長だけはまだまだ民間商船を増援に使うべきと強硬に反対した。
ガダルカナル島奪回作戦を立てた参謀本部の意地があったのか、陸軍省佐藤賢了軍務局長を参謀本部に呼び付け激論の末、ぶん殴る事件をも起こした。


翌日には、もはや東條英機首相でさえ、やむを得ずとなっていたところ、首相官邸
「ばかやろうっ!。」
と、罵倒してしまい、第一作戦部長の職を罷免され前線のビルマ方面軍に飛ばされた。


参謀本部、第一作戦部長は石原莞爾も就いた要職だが、石原莞爾は盧溝橋事件の時、不拡大方針に動き、トラウトマン和平工作を工面した。

 

 

松岡洋右の東洋、ソ連、西洋、アメリカを結ぶ四国同盟というもはや宇宙人的な皇道外交により1940年9月27日、日独伊三国同盟を締結し、節操無く半年後の1941年4月13日には日ソ中立条約を締結した。
それから2ヶ月半後の6月22日、独ソ戦が勃発し、日本政府は度肝を抜いた。
度肝を抜くような事態にも田中新一と松岡洋右だけは今こそドイツと挟撃でソ連に攻めるべき(北進論)と進言。

当時、陸軍省軍務局長だった武藤章は南部仏印進駐(南進論)を押した。

結果、南部仏印進駐はアメリカの対日石油禁輸を招く大誤算だったが、武藤章の考えはとりあえず南方資源を獲得しとこう、とアメリカがそれほど強硬に出るとは考えなかった。
しかも陸軍の殆どが南進論だった。

田中新一と松岡洋右も賢明な考えでナチスと挟撃する対ソ戦を考えた訳ではなく、松岡は自分勝手な宇宙人外交に現実というシビアを浴びて逆ギレ、田中新一は関東軍のいつもの演習を独ソ戦開戦に刺激され10日後の7月2日には大規模なものに変更。
74万人もの動員で関東軍特種演習を実施。
俗に言う関特演。

ドイツのヴェーザー演習作戦もフランスとイギリスから中立国ノルウェーを守る名目の演習で見事に傀儡政権をつくりノルウェーを属国にしてしまった。


演習と言えども田中新一はやる気満々だった。
しかし、日本は南進論を選んだ。


田中新一のイケイケは、1942年戦局が悪化したガダルカナル島の撤退に対しても、もはや東條英機でさえ撤退やむを得ず、なのをそれでも1人、イケイケだった。

1942年12月7日、田中新一は参謀本部、作戦部長を罷免された。
同じ月の12月31日の大晦日、御前会議で大本営は、ガダルカナル島撤退を決断。
だが建前上、あくまで局地的転進と前向きに発表し、ニューギュア方面の作戦は継続することには拘った。

大本営もそれでは田中新一と50歩100歩。
賢いのは、ここで停戦調停することなのに。


ちなみに武藤章は既に改心して早期講和を主張していた。

盧溝橋事件の時は対支一撃論の強硬派で石原莞爾を中央から追い出す悪役な武藤章だが、それは時勢的な流れで、基本的には常識がある人だったんだろうか。
石原莞爾みたいな人間は特別な天才だけど。

武藤章は1939年に陸軍省の軍務局長に就任し、世界情勢が第二次世界大戦勃発の怒号の流れに、この戦争参加は日本には国力的に無謀だと分かり、南部仏印進駐でアメリカから対日石油禁輸政策を取られたところでハッと気付いたようだ。
それから日米交渉に加担し、ここで早期講和を主張した。


しかし、開戦し真珠湾奇襲攻撃の勝利で、早期講和を唱える武藤章東條英機がウザくなり軍務局長を罷免された。
その後に就任したのが佐藤賢了で、その時に田中新一とガダルカナル島撤退に対しひと悶着あった。


田中新一は、本当に頭のイカれた人間で、ばかやろう、は自分自身。

 

ちなみに田中新一は戦犯に指名されていない。
東條英機佐藤賢了武藤章松岡洋右A級戦犯として裁判に呼ばれた。

東京裁判で一番、理不尽なのは武藤章だと言われている。
身分も中将と一番低く、年齢も57歳と一番若い。
日中戦争の時の陸軍省の部下、田中隆吉がやたら武藤章を悪者に証言したとか。

田中新一が許されたのは天皇の温存を図るGHQ統帥権直属の参謀本部の人間を外したからとか、参謀本部の部下だった服部卓四郎、辻政信も戦犯にならなかった。
むしろ、奴らは戦後また立場を得て活躍したのだ。
このガダルカナル島の奪還作戦の実務も服部卓四郎と辻政信なのにだ。


田中新一は1976年83歳まで生きた。

松岡洋右は裁判中に病死
佐藤賢了終身刑の判決を受け1956年3月に釈放。その後は東急の関連会社の社長になったり栄誉職で人生まっとう。

田中新一にガダルカナル島撤退に対して罵倒された東條英機、早期講和を主張した武藤章は絞首刑に処された。