何の為の戦いなのか?ニューギニアの第18軍

カートホイール作戦は飛び石作戦でドミノ式で東部ニューギニアまで反撃していった。
反撃のドミノは最終的にはマッカーサーの念願
「I shall return」
でフィリピンに上陸することになる。

 

日本軍のニューギニア侵攻は1942年1月にニューブリテン島のラバウルを占領。同年3月にサラモア、ラエに上陸で始まり、更にラバウル基地の防御の為、ニューギニアの首都ポートモレスビーの攻略作戦から始まる。
アメリカのハワイ基地とオーストラリアを遮断するMO作戦(ポートモレスビー作戦)の一環だ。

MO作戦のポートモレスビーの攻略はまず1942年5月の珊瑚海海戦で引き分け、海路でポートモレスビーを占領することが出来なくなり一時中止された。
よって陸軍の南海支隊に陸路でポートモレスビーを攻略する「リ号研究」を作成するよう命じた。
リ号研究は南海支隊が上陸したブナからパプアニューギニアの首都ポートモレスビーにまたがるオーエン・スタンレー山脈、標高4100メートル(サラワケット山と同じ位)を越えればなんとかポートモレスビーに到着出来るか?という内容だった。
そして発表する段階まできた。
ところが、そのリ号研究を参謀本部の作戦課の辻政信が独断で即、実行に変更したのだ。

「リ号はもはや研究にあらず、作戦として実行せよ。」

辻政信は独断専行で南海支隊の隊長、堀井富太郎少将に実行を命じた。
なんとサラワケット越えの前に山越え作戦(未遂に終わったが)があったのだ。

南海支隊はオーエン・スタンレー山脈の山頂を越えて下り坂のイオリバイワまで到達したところで連合国の航空部隊の圧倒的な戦力、オーストラリア軍の落下傘部隊に攻撃され退却。
あと2日でポートモレスビーに到着予定だった。
退却途中のココダで戦闘になり南海支隊は半数の3400人まで数を減らした。

戦闘よりマラリアによる死亡が殆どだったという。
堀井少将もジャングルの中の河川をカヌーで移動中、転覆事故死した。
湿地帯のジャングルがどれだけ危険かも、よく考えてなかったろうな(泣)。

 

1943年4月18日、山本五十六ラバウル基地から一式陸攻ブーゲンビル島に視察に向かう途中、日本の設営隊が苦労して建設したヘンダーソン飛行場から出撃したアメリカの戦闘機P-38 ライトニングに撃墜され戦死。
MO作戦の言い出しっぺ山本五十六自身が死んでしまった。
この後、侵略だけで補給の事まで考えてない、思い付きのように無謀なMO作戦だけが残された。
MO作戦という広大な太平洋を網羅し海軍力が存分に発揮できる、無謀(夢)な作戦に付き合わされた陸軍兵士にとっては

何の為の戦いなのか、まったく訳の分からないものだったろう。
大義名分も何も。

大義名分、そう、1943年9月30日の御前会議で設定された「絶対国防圏」から東部ニューギニアは外れた。
更に東のラバウル航空基地のあるニューブリテン島も、もちろん外れた。

海軍の夢の残骸、ニューギニアは取り残された形となった。

ニューギニア島は日本の二倍の土地を持つ世界2番目に大きな島。
西半分はオランダ領インドネシア、東半分はオーストラリアの委任統治領のパプアニューギニア
殆どが湿地帯でマラリア蚊が大量に発生している。

連合国は既にマラリア蚊の研究をし、マラリアの治療薬を開発していた。
日本は19世紀からあるマラリアの特効薬キニーネを持ち歩かせた程度。

連合国は食糧も「レーション」という栄養バランスばっちりの携帯用野戦食を航空機で空から投下という、兵士に重い荷物を持たせない極めて合理的なやり方で補給した。

日本は兵士自らが米と飯盒を背負って歩きました(泣)。

もはや文明人と原始宗教(バンザイ)の差がある(泣)。

ちなみに野戦食=レーションの興りはナポレオンなのだ。戦争に持ち歩ける保存食、瓶詰(後に缶詰に発展)を開発させた。
18世紀後半には既にある発想なんだが、日本はまったく学んでない。


MO作戦に補給はもちろん、ニューギニア島が湿地帯でマラリア蚊の影響で兵士がマラリアになる配慮はあったのか?
ただ、いたずらに兵士を逐次投入するしかない無謀な作戦でしかなかったろう、結果そうだ。

「戦力の逐次投入」
カール・フォン・クラウゼヴィッツが「戦争論」で、最も愚策と書いた事だ。
小出しに出兵し、戦果が得られないまま、現有戦力がダウンしていく事は、愚策の極みとしている。


日本軍がまさに、それやったな(泣)。


南海支隊の次に日本は第20師団をマダンに、第41師団をウェワクに、第51師団をラエ、サラモアに送った。

そして第51師団は南海支隊に続き退却の山越えを体験する(サラワケット越え)。


クラウゼヴィッツいわく
「小出しに出兵し、戦果が得られないまま、現有戦力がダウンしていく事は、愚策の極みである。」


まんま(泣)。


南海支隊、第20師団、第41師団、第51師団は安達二十三中将の第18軍所属だが、安達二十三のニューギニア戦線とは絶対国防圏から外れ、大義名分すら無い、海軍の夢の残骸の後始末だった。

 

国を守る為の戦いではないと設定されたのならば、何の為の戦いなのか。

 

サラワケット越えを終えた第51師団には更なる試練、到着したキアリにオーストラリア軍が上陸し、再び山越え(泣)フィニステル山系の中腹を、やはりマラリア、スコールの増水による溺死の多数の犠牲者を出しながら1ヶ月かけて横断し西のマダンへ撤退した(ガリ転進)。

更に1944年4月、マダンから更に西のウェワクへに転進。

しかし片桐茂中将の第20師団は大発でウェワクに移動する方法を選び、案の定、途中、敵魚雷艇に襲われ壊滅した。
更に悪いことに連合国が第20師団の残骸から暗号書、乱数表を鹵獲。
ニューギニア方面の日本陸軍の暗号通信が連合国に盗まれた。
そのため、日本が次に更に西のアイタペを攻撃する計画がバレ、連合国に事前準備をさせてしまった。
このアイタペ戦における暗号復号は、ウルトラ情報による事前警告の最大の成功例と言われてる、そうな。


(泣)


何も知らない日本はアイタペ戦に対し、第18軍の上の東部ニューギニア担当の第8方面軍、今村均とオランダ領東インドインドネシア)東部担当の第2方面軍、阿南惟幾で意見が割れた。

今村均は「とりあえず持久戦」←正解

阿南惟幾は「アイタペを攻めよ」←暗号バレたから間違い

第18軍は西のアイタペへの移動により阿南惟幾の第2方面軍下に変更された後、ややこしいのか、更に寺内寿一の南方軍直属に変更された。

せっかく南方軍直属になったのに安達二十三は阿南惟幾のアイタペ攻戦を選んだ(泣)。


アイタペの戦いはまさに、何の為の戦いなのか分からない、口減らしなんじゃないか?と味方同士が思うような惨状だった。


もはや、兵士はボロボロの戦闘服に、食糧が無く栄養失調のガリガリに痩せた体で体力も無く、武器弾薬すら持ち歩く事が出来ず捨てていき、補給物資はゼロ。武器弾薬、食糧無しでの白兵戦だったのだ。


途中、安達中将は作戦方針を今村均の言う持久戦に転換した。


暗号を解読し待ち伏せしていた準備万端の連合国軍にボロボロの日本兵が太刀打ち出来るものではなく、13000人もの兵士が死んだ。
しかも殆どが戦死ではなくマラリア赤痢、餓死、戦闘する前にくたばった。
またはふらふらと幽鬼のように突撃してそのまま倒れたのか。

数が減った為、残った兵士に食糧が回るようになり持久戦が可能になったのだ。

アイタペの戦いは「口減らしの作戦」だと第18軍の間で噂になった。

なんと終戦1945年8月まで、何の為の戦いなのか分からない、戦いは続き、終わった。

 

山本五十六の置き土産、ニューギニア

 

最近、言われてるIFで

海軍はインド洋でイギリス相手に戦ったら日本は勝てていた


インド洋から西に西に
北アフリカ戦線のドイツのロンメル将軍と挟撃していきスエズ運河を抑えて停戦調停に持ち込む。



まだ、マシだったんじゃ、という気にはなるな。あまりに太平洋が広大で補給が無謀で悲惨過ぎて。

しかも山本五十六の作戦は初っぱなの真珠湾も奇襲だから、いちゃもんまで付けられ放題で原爆投下の言い訳にもされた。
だから、真珠湾奇襲も勝ち戦ではない。


太平洋の戦いは最悪の選択の連続だ。
日本人は優秀だが、日本の作戦参謀が最悪だった。
優秀な石原莞爾を追放し、全部、服部卓四郎、辻政信だろ。

最悪の奴らが実権を握ってしまった戦争だったと思う。
なぜなら優秀な人材なら、まず参戦しないから。