スエズ運河を抑えていれば

1942年4月5日~9日、セイロン沖海戦の南雲機動部隊の鮮やかな勝利でイギリス東洋艦隊はモルディブ諸島のアッドゥ環礁に退却。
更に植民地ケニアのキリンディニ港まで退却。
そして最終的には南半球のマダガスカル島迄、退却した。


マダガスカル島は南半球のアフリカ大陸の南東海岸部から沖へ約400キロメートル離れた西インド洋にある。
19世紀後半からフランスの植民地になっている。


南雲機動部隊に敗れ退却したイギリス東洋艦隊は次に、1942年5月5日から11月6日迄で行われたマダガスカルの戦いでナチス・ドイツの占領下のヴィシー政権と戦うことになる。


同じヨーロッパのドイツとイタリアは協力体制がスムーズでヴィシー政権で占領地になったマダガスカル島にイギリス東洋艦隊が向かう最中、隙をつくようにイギリス領マルタ島を攻略しようと空爆を行った。
しかし、1942年8月からのイギリスの補給作戦、ペデスタル作戦により失敗する。


マルタ島はイタリア南部のシチリア島から更に南、地中海のアフリカ大陸のリビアとの中間にある島だが、イギリスにとって地中海からスエズ運河に向かう為の要所で、やはりスエズ同様の最重要拠点で、絶対に手放せない。
ナチス・ドイツにはマルタ島攻略はスエズ運河占領を目指す北アフリカ戦線のロンメルの救援を意味した。


立地条件の良さもあるマルタ島は、地中海の真珠、と呼ばれている。


1798年6月にナポレオンもエジプト遠征の時にまずはマルタ島を占領した。
イギリスの植民地インドへの交易を断つ目的のエジプト遠征に、足掛かりには、やはり地中海のマルタ島の占領が不可欠だった。
ナポレオンが凄いのはマルタ島にはマルタ騎士団という武装集団がいたが、たった一週間で駆逐しフランス式の行政を敷いて、マルタ島を去りエジプトに侵攻した。

そしてエジプトを一時、占領した時にスエズ運河建設が可能か学術調査団に調査させている。
しかし、この時はまだ測量技術が未熟で地中海と紅海の海面の差が10mもあると運河建造は不可能だと判断した。
本場イギリスでも考えなかった運河建設案を考慮した29歳のナポレオン。得意の神速技が乗りに乗った時期かな。

結局、イギリス海軍のネルソンとのアブキールの海戦に負けナポレオンのエジプト遠征は失敗に終わった。


ナポレオンが失敗したエジプト遠征、インド洋作戦にのみ集中してれば日本が成功した可能性があった。


しかし、現実はセイロン沖海戦で勝利したにも関わらず、日本海軍はMO作戦で太平洋方面に向かった。
よって日独伊の同盟が発揮される絶好の機会、マダガスカルの戦いには、日本は遠いのもあり、海上輸送の危険性で深海からひっそりとオマケ程度に潜水艦5隻、伊10、伊16、伊18、伊20、伊30を派遣した。

そしてマダガスカル島のディエゴスアレス軍港に真珠湾奇襲攻撃の時にも若者をほぼ特攻させた

特殊潜航艇

という潜水艇

甲標的

に艇長、秋枝三郎ら20代の若者が乗船し、搭載した魚雷でイギリスの戦艦ラミリーズを大破、石油タンカーのブリティッシュ・ロイヤルティを撃沈。

しかし、特殊潜航艇の乗組員は20代の若さで戦死した。


そしてマダガスカルの戦いはヴィシー政権とは言え、フランスのド・ゴール将軍のいる連合国に寝返る者が多く、連合国の勝利に終わった。
なんでも給与支払いがヴィシー政権からで、金の為、仕方なくで、結局はド・ゴール将軍の自由フランス寄りばかりだった。


まあ、この後、スエズ運河同様、このマダガスカル島を連合国に獲られた影響が大きくなる。


スエズ運河はフランスの外交官フェルディナン・ド・レセップスが計画した。
ちなみにレセップスはナポレオンの甥ナポレオン三世の妻の親族で、ナポレオンのエジプト遠征の時の計画を温めていたのか?
レセップスの計画通り、フランスのスエズ運河会社が1859年4月25日に着工し10年かけて1869年11月17日に完成させた。
しかし、後、経営難からイギリスが1875年にスエズ運河会社の株式を買収。スエズ運河はイギリスの管理下に置かれた。

イギリスのスエズ運河支配への執着は第一次世界大戦から第二次世界大戦後まで続き冷戦構造から、未だに続く中東戦争のきっかけとなった。
イギリスとエジプトが争う第二次中東戦争の時、アメリカとソ連が干渉しイギリスはようやくスエズ運河から手を引いた。

やはり最重要拠点は凄まじいな。

ヒトラーはナポレオンに憧れたかロシア遠征の成功版とばかりに意気込み、無謀な独ソ戦を始めたが、日本もインド洋制覇を
石原莞爾ナポレオン戦争を「世界最終戦論」で書いたが、誰かナポレオンに憧れてくれて


俺がナポレオンの如くインド洋からエジプトを制圧してスエズ運河を占領する!


と、なってくれるの居なかったのかな。

イギリスがいつまでも手放さない絶対的な最重要拠点なんだぞ。

 

日本とナチス・ドイツの協力体制は遣独潜水艦作戦という潜水艦での連絡交換で行われた。
やはり海上輸送の危険性から潜水艦での渡航となった。
1942年から5回行うが2回目だけが当時ナチス・ドイツ占領下のフランス、ブレスト軍港に無事に到着し帰還出来た。

最初、伊30
行きは成功、1942年8月6日にフランスのロリアン軍港に入港するも帰り10月13日にシンガポール港にて、なんと自軍の機雷に触れ沈没する(泣)。

2回目、伊8
ヒトラーが日本に無償譲渡するUボート「U1224号」をドイツから日本に回航する要員60名を乗せ、1943年8月31日、無事フランス、ブレスト軍港に到着。
帰国も成功。
駐独大使館付海軍武官の横井忠雄海軍少将が便乗帰国した。

3回目、伊34
1943年11月13日、向かう途中、マラッカ海峡にてイギリス海軍の潜水艦に撃沈される。

4回目、伊29
駐独大使館付海軍武官小島秀雄海軍少将、永盛義夫海軍技術少佐、田丸直吉技術少佐、鮫島龍雄海軍大学校ドイツ語教授ら総勢17名の便乗者を乗せシンガポールから1944年3月11日にフランス、ロリアン軍港に到着。
帰りは、小野田捨次郎海軍大佐、松井登兵海軍大佐、巌谷英一海軍技術中佐ら総勢18名を便乗させ、4月16日にロリアンを出航。
7月14日にはシンガポールに入港するも、7月26日にバシー海峡にてアメリカ海軍の潜水艦に撃沈される。

同艦には、Me163型ロケット戦闘機及びMe262型ジェット戦闘機に関する資料が積まれていたが、シンガポールで零式輸送機に乗り換えた巌谷英一海軍技術中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われた。

5回目、伊52
1944年6月24日、向かう途中、大西洋にて米護衛空母ボーグの艦載機の攻撃により沈没。

 

1回しか成功しなかった。
しかも重要なのは4回目のナチス・ドイツの技術資料だったが、撃沈され喪失した。

 

やはり、スエズ運河を、マダガスカル島を抑えていれば素早く安全にナチス占領下のフランスの軍港に到着出来た。


日本は遣独潜水艦作戦を占領下シンガポールマラッカ海峡からインド洋を渡り南半球のマダカスカル島のあたりから南アフリカ喜望峰沖を回り大西洋のドイツ占領下のフランスの軍港にようやく到着、と、連合国の危険にさらされながら、南アフリカを回る片道およそ3ヶ月を要したのだ。

 

スエズ運河を抑えなかった故に。

 

ニューギニアの山越え同様、無駄に過酷な事をさせて終わり。

 

日本は伊400という巨大潜水艦でパナマ運河の攻撃、占領を企んだが、戦争後半には太平洋の制海権を連合国に獲られパナマ運河まで向かうことが出来ずミクロネシアのウルシー環礁あたりで立ち往生してるうちに終戦した。

山本五十六真珠湾から太平洋方面の占領も最終的にはパナマ運河を目的としていたとか。
戦争初期から潜水艦でパナマ運河攻略を目指す作戦はあったが、ミッドウェー海戦の敗北で実行出来なくなった。

パナマ運河の方はアメリカの最重要拠点だから、生半可なことでは占領出来ないだろうに。

日独伊三国同盟な以上、スエズ運河を優先すべきだったが、どのみち無謀な計画を実行する博打なら

ナポレオンの如く
だったな。