スラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦

1940年5月10日、ナチス・ドイツはオランダに侵攻。
オランダのウィルヘルミナ女王は1940年5月13日にイギリスに亡命し、オランダ亡命政府となった。

フランスも侵攻され1940年6月22日に独仏休戦協定が締結された。フランスは分断されナチス・ドイツが占領するパリ、海岸部を含む北部とナチス・ドイツ傀儡のフィリップ・ペタン首相のヴィシー政権となった。

日本はナチス・ドイツがフランスに侵攻した1940年5月から仏印を狙いはじめフランスが占領され消滅し、ナチス・ドイツ傀儡になったのを良いことに1940年8月末に松岡洋右外務大臣とシャルル・アルセーヌ=アンリ駐日フランス大使で松岡・アンリ協定を締結。
アジアにおける日本とフランスの利益の尊重、仏印への日本軍の進駐、協力を約束した。
同年9月22日には軍事的な協力も約束する軍事協定、西原・マルタン協定が西原一策少将とモーリス=ピエール・マルタン仏印軍最高司令官で締結。
そして翌日、9月23日、北部仏印進駐を実行。
アメリカから対日屑鉄輸出禁止を受ける。

日本は石油の輸入を90%アメリカに依存していた。

石油もヤバいかも…。

ならばアメリカ以外からも石油を輸入すれば良い。

インドネシアの油田

ロイヤル・ダッチ・シェルスタンダード・オイルがあるインドネシアを植民地とするオランダから石油を売ってもらおうと交渉する。

日蘭会商

既にオランダとは1930年代に綿製品の取引で第一次日蘭会商をやっている。

1940年からは米内光政内閣がオランダがドイツに占領され本国が消滅した足元を見るように東南アジアの植民地、蘭印に干渉しない代わりを求めた。石油、ボーキサイト、ゴムなどの日本への供給を交渉。
しかし、途中、米内内閣は総辞職する。

次の第二次近衛文麿内閣が継承し、この交渉が第二次日蘭会商となる。
まず、前、拓務大臣の小磯国昭予備役陸軍大将に使節団長を依頼した。
小磯国昭は引き受ける条件として陸、海軍の同行を要求。
もはやオランダの足元を見る威力だ。
さすがに軍隊を同行の交渉は当時、陸軍大臣だった東條英機でも「非常識」と発言したとか。
また、小磯国昭は記者会見で
「蘭印ではオランダ人と華僑が原住民に極端な搾取を行っていると聞く。また原住民は政治的、文化的に低い水準にあると聞く。日本は彼等と民族的に近い。虐げられた東洋民族を救済するのは日本の宿命だ。世界の平和、共栄のための南進政策、これが日本の社会通念である。」
と、大変、ご立派な大東亜共栄圏論を高らかに唄い上げ、これが東京朝日新聞、更にロイター通信で世界中に配信されて物議を醸した。
小磯国昭の言ってることは後の植民地解放につながる正論だが、当然、オランダには強い反発を引き起こすもので、小磯国昭の派遣は取りやめになった。
次に刺激の無い文官から阪急グループの創立者小林一三商工大臣を任命。1940年9月13日にバタビアに派遣した。
しかしフランス領の北部仏印進駐に加え1940年9月27日にベルリンで締結した日独伊三国同盟によりナチス・ドイツと同盟を組んだことがオランダの警戒心をかなり強めた。
交渉は当然、難航し、団長を芳澤謙吉外務大臣に交代したが、本国を占領したナチス・ドイツと同盟を組んだ日本をもはやオランダは信用してくれなかった。


そして、交渉決裂。


日本は1941年7月28日、資源を求めて更に南下し南部仏印進駐を実行。
アメリカから対日石油禁輸、対日資産凍結を受ける。
イギリスも、もちろん日中戦争中の中国も、そして日蘭会商が決裂したオランダもアメリカに続いた

Aアメリ
Bブリテン=イギリス
Cチャイナ=中国
Dダッチ=オランダ
ABCD包囲網

そして日米交渉中のコーデル・ハル国務長官からハルノートが突き付けられ


開戦


1941年12月8日からマレー作戦、真珠湾奇襲攻撃、香港攻略、ビルマ、フィリピン攻略


次はインドネシアパレンバンの石油。
石油が無い日本


すべては石油のためだった。


蘭印作戦。
1942年1月11日にまず坂口静夫少将率いる第56師団の坂口支隊が、フィリピンのミンダナオ島からボルネオ島、更に油田地帯があるタラカン島に上陸した。


1942年2月14日スマトラ島パレンバン
「空の神兵」
と呼ばれた空挺部隊、落下傘部隊が降下。
パレンバンの油田、製油場、飛行場を占拠。
英蘭軍はなすすべもなかった。
パレンバンの油田を日本軍は見事、抑えた。


そして蘭印作戦の総仕上げ、物資と今村均中将、率いる第16軍をジャワ島のバタビアに移動させる。

この時、起こったのが
スラバヤ沖開戦とバタビア沖海戦。


⚫スラバヤ沖海戦
1942年2月27日
東部ジャワ攻略部隊としてフィリピン方面の第14軍指揮下第48師団と坂口支隊が輸送船約40隻に分乗してジャワ島東部のスラバヤを目指した。


第三艦隊司令官、高橋伊望(いぼう)中将の指揮下
旗艦、重巡洋艦 足柄、重巡洋艦 妙高
駆逐艦、雷(いかづち)、電(いなずま)、曙(あけぼの)

司令官、高木武雄少将の第五戦隊、重巡洋艦那智、羽黒
駆逐艦、潮(うしお)、漣(さざなみ)、山風(やまかぜ)、江風(かわかぜ)

第二水雷戦隊の田中頼三少将、軽巡洋艦、神通(じんつう)
駆逐艦雪風(ゆきかぜ)、時津風(ときつかぜ)、初風(はつかぜ)、天津風(あまつかぜ)

第四水雷戦隊の西村祥治少将、軽巡洋艦、那珂
駆逐艦村雨(むらさめ)、五月雨(さみだれ)、春雨(はるさめ)、夕立(ゆうだち)、朝雲(あさぐも)、峯雲(みねぐも)

がジャワ島に向かう護衛の途中、スラバヤ沖海戦で戦うことになる。


対する連合国軍は

Aアメリ
Bブリテン=イギリス
Dダッチ=オランダ
Aオーストラリア
ABDA海軍部隊

オランダのコンラッド・ヘルフリッヒ中将、司令長官の元

オランダのカレル・ドールマン少将が指揮官のABDA連合打撃部隊で迎えた

オランダは旗艦、軽巡洋艦デ・ロイテル、ジャワ
駆逐艦コルテノール、ヴィッテ・デ・ヴィット

イギリス重巡洋艦エクセター
駆逐艦エレクトラ、エンカウンター、ジュピター

アメリカは重巡洋艦ヒューストン
駆逐艦ジョン・D・エドワーズ
ポール・ジョーンズ
ジョン・D・フォード
アルデン
ポープ

オーストラリアは軽巡洋艦パース

1942年2月27日の午前11時過ぎ、日本の索敵機が連合国の敵艦隊を確認した。そして46時間にわたる壮絶な雷撃戦が勃発する。

2月27日の夕刻5時39分に第二水雷戦隊の軽巡洋艦、神通が敵艦隊を発見。第五戦隊、第四水雷戦隊がこれに続いた。
高木武雄少将はアウトレンジ戦法を採りスラバヤ沖で20000メートル離れた距離から雷撃を仕掛けた。

20000メートル=20キロメートル
皇居からだと
北は埼玉県川口市あたり
南は横浜
東は浦安のディズニーランド位の海上での距離。
日本の酸素魚雷は20キロメートル以上は推進させる威力があったから一方的なアウトレンジ戦法が可能だった。

日本の艦船が高速移動で高威力の93式魚雷を20000メートル先からバシバシバシバシ
推進力は高いが、途中で爆発したり、なかなか命中しなかった。
高木武雄少将は後、この遠距離からのアウトレンジ戦法を批判されたが、一説には初めて使用する93式魚雷の使い方を間違えた為、命中しなかったヒューマンエラー説がある。
1時間後の午後6時37分ようやく重巡洋艦、羽黒の雷撃がイギリスの重巡洋艦エクセターに命中、中破する。

午後6時45分には同じく重巡洋艦、羽黒の雷撃でオランダの駆逐艦コルテノールを撃沈する。

中破した重巡洋艦エクセターをスラバヤに退却させる為、護衛としてオランダ駆逐艦ヴィッテ・デ・ヴィットが同行。
ABDA連合打撃部隊もいったん退却するも、高木武雄少将の指揮下、第五戦隊、第二水雷戦隊、第四水雷戦隊は追撃する。


遠距離ゆえに命中率は悪かったが敵の魚雷からは届かない距離から一方的に発射、推進させ当たれば撃破、アウトレンジ戦法だから味方の損傷は免れ、時間の問題ではあった。
連合国側の魚雷はせいぜい推進5000メートルだったというから、日本の酸素魚雷の威力は抜群のものだった。

それにABDA連合打撃部隊は先の日本のシンガポール、フィリピン攻略から退却した艦船の寄せ集め集団だった上にパレンバンの油田を日本軍が抑えた為、燃料が足りず、動きが鈍くなっていた。

また、オランダ人司令官のオランダ語と英語のコミュニケーションも大変な手間がかかった。

蘭印に対する執念もオランダ海軍だけは自衛意識で強烈だったが、先にマレーとフィリピンを失ったイギリスとアメリカにはそこまでの執念は残っていなかった。


夕刻から退却したABDA連合打撃部隊を高木武雄少将は全艦隊で追撃し、T字戦法でこれを迎えるよう命令した。
日本海海戦東郷平八郎の見事な戦術だが、なんせ遠距離、アウトレンジ戦法なんで雷撃は全て外れた(泣)。
そんなまどろっこしい中、第四水雷戦隊の駆逐艦朝雲、峯雲が近距離まで突進。
イギリス駆逐艦エンカウンター、エレクトラ、ジュピターに接近し雷撃する。
朝雲も当てたが返り撃ちにも合い中破。
次の峯雲がイギリスの駆逐艦エレクトラを見事、撃沈した。
エンカウンターも小破し、退却した。時は既に夜8時。

小破したエンカウンターは最初に撃沈されたオランダ駆逐艦コルテノールの漂流乗組員の救助をしながらスラバヤへ退却。
アメリカの駆逐艦群も燃料切れで離脱した。
翌々日3月1日になるが高木武雄少将は第三艦隊の高橋伊望中将の重巡洋艦 足柄、妙高に応援を依頼し
この時の残存艦イギリス重巡洋艦エクセター駆逐艦エンカウンター、アメリ駆逐艦ポープらを雷撃し撃沈することになる。
ジュピターは2月27日の、この退却中、上陸する日本軍の詮索でジャワ島沿岸に移動した時、味方オランダの仕掛けた機雷に当たり爆発、沈没。

残るABDA連合打撃部隊はオランダの軽巡洋艦デ・ロイテル、ジャワ、オーストラリアの軽巡洋艦パース、アメリカの重巡洋艦ヒューストン4隻。

深夜、翌日に入り2月28日午前0時過ぎ、高木武雄少将の重巡洋艦 那智、羽黒の雷撃がオランダの旗艦、軽巡洋艦デ・ロイテルにようやく命中した。
同じく深夜1時20分に重巡洋艦那智の雷撃によりオランダ軽巡洋艦ジャワも撃沈。


司令官のカレル・ドールマン少将は戦死した。


アメリカの重巡洋艦ヒューストンも小破したが、いち早く退却。
第五戦隊の重巡洋艦那智、羽黒がこの時、撃沈した敵艦デ・ロイテル、ジャワの敵漂流乗組員を救助する隙に退却したという説もあるが、撃沈した軽巡洋艦デ・ロイテルと運命を共にしたカレル・ドールマン少将は最後


「ヒューストンとパースは生存者に構わずバタビアに退避せよ」


と、電報を打電したという。

残存のABDA連合軍艦艇は退却するためジャワ島とボルネオ島間のスンダ海峡を通過して南方へ向かった。

 


バタビア沖海戦

1942年2月28日、物資と今村均中将とその指揮下、第16軍を移動させる輸送船56隻は、南部仏印カムラン湾を出撃していた。
これを護衛するのは
原 顕三郎少将司令官の第五水雷戦隊。
旗艦の軽巡洋艦、名取
駆逐艦、朝風(あさかぜ)、春風(はるかぜ)、旗風(はたかぜ)、皐月(さつき)、水無月(みなづき)、長月(ながつき)、冬月(ふゆつき)

第三水雷戦隊、駆逐艦、初雪(はつゆき)、白雪(しらゆき)、吹雪(ふぶき)、叢雲(むらくも)、白雲(しらくも)

第七戦隊、重巡洋艦、三隈(みくま)、最上(もがみ)
駆逐艦 敷波(しきなみ)


ABDA連合軍残存艦艇は
アメリ重巡洋艦ヒューストン
オーストラリア軽巡洋艦パース


2月28日の午前、スラバヤ沖海戦でなんとか退避出来たアメリ重巡洋艦ヒューストンとオーストラリア軽巡洋艦パースはバタビアのタンジョン・プリオク港に入港するも、もはや搭載魚雷も使い尽くし燃料切れでヘトヘトだった。
バタビアも、もはや日本軍の上陸で危険領域となり、更にオーストラリア側のジャワ島南岸、チラチャップへ移動する命令が下された。
しかし、チラチャップも既に日本の制空権範囲となっていた。既にスンダ海峡は封鎖されていたが、オランダ人の司令官がジャワ島死守の為、黙秘した説もある。
元々オランダだけが自衛意識が高い、アメリカ、イギリス、オーストラリアの国籍の違う命令系統の不統一で、蘭印に拘りのないアメリカのヒューストンとオーストラリアのパースの乗組員のテンションはだだ下がりだったという。
オランダは駆逐艦エヴェルトセンも同行させるもここでも連絡が行き届かず、遅れて参加することになる。
ヒューストンとパースは故障したレーダーの修理もままならず、燃料も充分に補充出来ず2月28日午後19時過ぎ、チラチャップに向けて出港した。

2月28日午後10時、チラチャップへ移動の途中、日本の駆逐艦、吹雪に発見され、雷撃戦が始まった。
スラバヤ沖海戦もだったが、なかなか雷撃が命令しなかった。
日本は第七戦隊の重巡洋艦、三隈、最上も集合させ翌3月1日の深夜0時過ぎ、まず、オーストラリアの軽巡洋艦パースを次にアメリカの重巡洋艦ヒューストンを撃沈した。

ヒューストン、パースの艦長、乗組員の大半が戦死した。
遅れて参加したオランダ駆逐艦エヴェルトセンは、途中、座礁した。

上陸作戦に成功する日本にもアクシデントがあった。
激しい夜戦での雷撃の中、今村均中将が乗った揚陸艦の龍城丸にも味方の重巡洋艦、最上が放った魚雷が命中してしまい大破した。
今村中将は海上へ投げ出され、約3時間も、大破した艦船から漏れた重油の漂う海を漂流した。


しかし、温厚な今村均はこの味方撃ちを問題にせず、穏便に流したという。


スラバヤ沖海戦では駆逐艦、雷(いかづち)の工藤俊作艦長が撃沈したイギリス駆逐艦エンカウンターなどの敵漂流乗組員422人を救助し連合国の病院船に引き渡した美談もある。
第五戦隊の重巡洋艦那智、羽黒もだが、勝ち戦の時は敵を救助してやる余裕があるが、3ヶ月後のミッドウェー海戦では駆逐艦、巻雲が拿捕したアメリカ人を海に投げ捨てたのは今秋公開予定の「ミッドウェイ」でもあるな(泣)。

海戦で敵を蹴散らしジャワ島に上陸した第16軍に対し、もはやオランダ軍に余力は無かった。
1942年3月10日、ジャワ島のバンドン要塞にある蘭印軍司令部が陥落した。
インドネシアの島全域を占領した日本軍の蘭印作戦は大成功に終わった。


今村均中将のジャワ、インドネシアラバウル統治は太平洋戦争の占領地でおそらく一番、人道的で建設的だったろう。
ニューギニアのアイタペの戦いの時も第18軍に持久戦を指示したように、今村はすべての統治領で兵力の無駄な消耗を避ける為、長期持久に備える島の開墾を行い、自給自足体制を敷いた。
オランダ人から虐待されていたインドネシア人も解放し大切に扱い、日本軍の味方にした。
ジャワ島攻略がスムースに成功したのも地元のインドネシア人の協力があったからだと言う。それだけ植民地時代のオランダ人はインドネシア人を虐待していた。

今村均はオランダから政治犯とされ監禁されていたスカルノとハッタらも解放し高い指導力のある彼らに資金、物資の援助を行い、その後のインドネシア独立運動につなげた。
終戦直後の1945年8月17日には統治者が空白の状態になった隙を見てインドネシア共和国として独立する。
スカルノは初代大統領、ハッタは初代副大統領となった。

よって戦後の軍法会議今村均インドネシア方面の第16軍司令官としてのオランダの軍法会議では山下奉文本間雅晴のように死刑にならず、無罪判決となった。
しかし、ラバウルの第8方面軍司令官としてのオーストラリアの軍法会議では禁固10年にされた。

ここで、人道的な統治を行った今村均人間性が表れる。
禁固刑を受けるに自分だけ東京の巣鴨プリズンでは、部下に申し訳がない、と環境の悪いパプアニューギニアのマヌス島の刑務所で部下と一緒の服役をわざわざ希望し、マッカーサーを感嘆させた。


マッカーサー

「真の武士道を見た。」

と、今村均に対して発言した。

 

 

歴史群像  4月号 (№160)

歴史群像 4月号 (№160)

  • 発売日: 2020/03/06
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