セイロン沖海戦

1942年4月5日から9日のセイロン沖海戦

連合国側では

 

「インド洋空襲 Indian Ocean raid

 

と呼ばれている、セイロン島の港コロンボと軍港トリンコマリーへの2回にわたる空襲から起きた海戦。


インド洋作戦の一環で
ドイツのクルト・フリッケ海軍軍令部長と日本の野村直邦海軍中将による連合国の補給ルートを協力して断とうという作戦だった。

インド洋作戦はドイツ側から依頼された日独伊三国同盟を活かした、非常に有効的かつ合理的な作戦だった。


ちなみに独ソ戦の挟撃(北進政策)もドイツから依頼されたが、日本は天の邪鬼に南進した。


問題は北進か南進ではなく、日本の少ない国力で単独で太平洋に向かったことだな。
少ない国力なら、協力体制でなければならない。


イギリスは疲弊し、アメリカには真珠湾奇襲攻撃はやってしまったが、スエズ運河を抑えるまですれば、その強みで早期講和が可能だったかも、と思われる。
日本の少ない国力なら、世界大戦なんか、早期講和で早くリタイアせねばならない。


しかし、軍令部こと海軍は

 

“海の男のロマン

 

で、太平洋に向かうつもりの輩が、山本五十六はもちろん、淵田美津雄もインド洋作戦の間、真珠湾“再“攻撃したくてウズウズしていたらしいから、やっぱり最初からアカンかったな(泣)。

 

 


1942年4月5日、インド洋作戦で淵田美津雄中佐率いるコロンボ攻撃隊がセイロン島にあるコロンボ港を空襲した。


セイロン島には先の1941年12月10日のマレー沖海戦で敗れ、1942年2月15日にはイギリス植民地最大の拠点シンガポールを日本の第25軍に陥落されたイギリス東洋艦隊が退避し停泊していた。
この時、東洋艦隊はマレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈され本国イギリスから増援を受け、戦艦5隻と空母3隻らを停泊していた。


空母インドミタブル
戦艦リヴェンジ
戦艦ロイヤル・サブリン
に加えイギリス本国から

空母フォーミダブル
軽空母ハーミズ
戦艦ラミリーズ
戦艦レゾリューション
戦艦ウォースパイト

重巡洋艦コンウォール
重巡洋艦ドーセットシャー
軽巡洋艦エメラルド
軽巡洋艦エンタープライズ
軽巡洋艦ダネー
軽巡洋艦ドラゴン
軽巡洋艦ホバート(オーストラリア海軍)

を増援していた。

東洋艦隊の司令長官はプリンス・オブ・ウェールズと運命を共にしたトーマス・フィリップス中将に変わりジェームズ・サマヴィル中将が就任し、1942年3月24日にセイロン島のコロンボに到着。
戦艦ウォースパイトに将旗を掲げた。


サマヴィル中将は日本軍がセイロン島へ侵攻しようとした場合、もはや、対策不可能、という絶望的な見通しを下し、仕方なく、セイロン島を捨て南方のモルジブのアッドゥ環礁へ退避することにした。


イギリスは前年までのバトル・オブ・ブリテンで航空機が不足していた。
急降下爆撃機を持っておらず旧式の複葉で固定脚のフェアリーソードフィッシュ雷撃機にホーカーハリケーン、フェアリーフルマー、スーパーマリンスピットファイア5型の戦闘機があったが、数が足りなかった。


大英帝国は破綻寸前。


複葉機って、第一次世界大戦のだな。旧式。
しかし、ソードフィッシュは、あのナチスの誇る超弩級戦艦ビスマルクを撃沈した。

だが、ツェルベルス作戦の時はソードフィッシュは6機出撃したがドイツの戦艦シャルンホルスト、戦艦グナイゼナウ重巡洋艦プリンツ・オイゲンの三艦に見事にドーバー海峡を通過されてしまい、挙げ句にはドイツの戦闘機に全機、撃墜される様だった。


やはり複葉機ではアカン。


逆に、この時の日本は世界最優秀の戦闘機ゼロ戦に練度最優秀のパイロットという見事な航空部隊だった。

セイロン沖海戦の時はまだ、これらの最優秀パイロットが存命で、絶頂期だった。
太平洋に向かい、どんどん落命するが…


真珠湾奇襲攻撃にも出撃した淵田美津雄中佐が率いる第一航空艦隊の攻撃隊は
九七艦攻54機
九九艦爆38機
が、37機のゼロ戦に護衛されコロンボ上空で空襲した。


コロンボ攻撃隊
赤城からは淵田美津雄中佐が総司令官
蒼龍からは阿部平次郎大尉
飛龍からは楠美正少佐
瑞鶴からは坂本明大尉
翔鶴からは高橋赫一少佐

制空隊
赤城からは板谷茂少佐
蒼龍からは菅波政治大尉
飛龍からは熊野澄夫大尉
瑞鶴からは牧野正敏大尉

艦船攻撃
赤城からは阿部善次大尉
蒼龍からは江草隆繁少佐
飛龍からは小林道雄大


飛行士マニアの方には知れた名前ばかり。まあ、タレント揃いだ。

 


しかし、東洋艦隊は既に
アッドゥ環礁に移動中でコロンボにはわずかな駆逐艦仮装巡洋艦潜水母艦、潜水艦があっただけでやはり、淵田もミッドウェー島攻略作戦の友永丈市と同じく物足りなく感じ


「第二次攻撃の要あり」


と南雲の司令部に打電した。


これを受け、南雲中将は第五航空戦隊の空母翔鶴、瑞鶴に魚雷兵装待機中の九七式艦上攻撃機の魚雷を爆弾に変えるよう命じた。

しかし、コロンボ攻撃隊の収容中に索敵中の水上偵察機がイギリスの巡洋艦2隻を発見したと打電してきた。
また、他の水上偵察機もイギリスの駆逐艦2隻、発見と打電してきた。
南雲は、爆弾から魚雷に、再び転換命令を下した。


ミッドウェー海戦と同じ(汗)。


しかし、この時は日本の最優秀パイロットが素早く、イギリスの巡洋艦を発見した。
故障中で港での修理が必要だった為、日本の空襲が終わる迄、コロンボ港の近くで待機していた。
そこを江草隆繁の率いる九九艦爆の急降下爆撃により


重巡洋艦コーンウォール
重巡洋艦ドーセットシャー


が、わずか10数分で大破。

 

 

 


この時は、ミッドウェー海戦の反対。
日本の急降下爆撃機がイギリスの重巡洋艦を瞬殺した。


命中率85%で艦爆の神様、江草隆繁、と呼ばれた。

 

 


4月9日にはトリンコマリー軍港の空襲をする。
やはり故障中のイギリス空母ハーミズが、軍港トリンコマリーでの修理が必要で駆逐艦ヴァンパイアとともに一時退避していた。
日本の空襲が終わったと見るや、トリンコマリーに引き返す最中に、日本の索敵機に発見され、同じく瞬殺で爆撃機に大破された。

 

 

 

 


しかし、イギリスは、単にバトル・オブ・ブリテンで疲弊していたに過ぎない。
それにイギリスは敗れたが日本が次はトリンコマリーに空襲する暗号は解読していた。


暗号解読されたり、混乱し急な兵装転換を命じたりミッドウェー海戦で南雲はまた同じ状況に陥るが、次は国力温存した意気揚々のアメリカだ。

 


そうとも知らず日本海軍はインド洋から撤退し、米豪遮断を目指しMO作戦へと太平洋に向かってしまう。

 


ドイツのクルト・フリッケ海軍軍令部長は、この絶好のタイミングで日本がインド洋作戦を中止した事を大変、嘆いたそうだ。
独ソ戦の挟撃反故ではリッベントロップ外務大臣やオット駐日大使を嘆かせたんだよな。


そして日本はこの2ヶ月後のミッドウェー海戦で、自らが嘆くことになる。