セイロン沖海戦
1942年4月5日から9日のセイロン沖海戦
連合国側では
「インド洋空襲 Indian Ocean raid」
と呼ばれている、セイロン島の港コロンボと軍港トリンコマリーへの2回にわたる空襲から起きた海戦。
インド洋作戦の一環で
ドイツのクルト・フリッケ海軍軍令部長と日本の野村直邦海軍中将による連合国の補給ルートを協力して断とうという作戦だった。
インド洋作戦はドイツ側から依頼された日独伊三国同盟を活かした、非常に有効的かつ合理的な作戦だった。
ちなみに独ソ戦の挟撃(北進政策)もドイツから依頼されたが、日本は天の邪鬼に南進した。
問題は北進か南進ではなく、日本の少ない国力で単独で太平洋に向かったことだな。
少ない国力なら、協力体制でなければならない。
イギリスは疲弊し、アメリカには真珠湾奇襲攻撃はやってしまったが、スエズ運河を抑えるまですれば、その強みで早期講和が可能だったかも、と思われる。
日本の少ない国力なら、世界大戦なんか、早期講和で早くリタイアせねばならない。
しかし、軍令部こと海軍は
“海の男のロマン“
で、太平洋に向かうつもりの輩が、山本五十六はもちろん、淵田美津雄もインド洋作戦の間、真珠湾“再“攻撃したくてウズウズしていたらしいから、やっぱり最初からアカンかったな(泣)。
1942年4月5日、インド洋作戦で淵田美津雄中佐率いるコロンボ攻撃隊がセイロン島にあるコロンボ港を空襲した。
セイロン島には先の1941年12月10日のマレー沖海戦で敗れ、1942年2月15日にはイギリス植民地最大の拠点シンガポールを日本の第25軍に陥落されたイギリス東洋艦隊が退避し停泊していた。
この時、東洋艦隊はマレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈され本国イギリスから増援を受け、戦艦5隻と空母3隻らを停泊していた。
空母インドミタブル
戦艦リヴェンジ
戦艦ロイヤル・サブリン
に加えイギリス本国から
空母フォーミダブル
軽空母ハーミズ
戦艦ラミリーズ
戦艦レゾリューション
戦艦ウォースパイト
重巡洋艦コンウォール
重巡洋艦ドーセットシャー
軽巡洋艦エメラルド
軽巡洋艦エンタープライズ
軽巡洋艦ダネー
軽巡洋艦ドラゴン
軽巡洋艦ホバート(オーストラリア海軍)
を増援していた。
東洋艦隊の司令長官はプリンス・オブ・ウェールズと運命を共にしたトーマス・フィリップス中将に変わりジェームズ・サマヴィル中将が就任し、1942年3月24日にセイロン島のコロンボに到着。
戦艦ウォースパイトに将旗を掲げた。
サマヴィル中将は日本軍がセイロン島へ侵攻しようとした場合、もはや、対策不可能、という絶望的な見通しを下し、仕方なく、セイロン島を捨て南方のモルジブのアッドゥ環礁へ退避することにした。
イギリスは前年までのバトル・オブ・ブリテンで航空機が不足していた。
急降下爆撃機を持っておらず旧式の複葉で固定脚のフェアリーソードフィッシュ雷撃機にホーカーハリケーン、フェアリーフルマー、スーパーマリンスピットファイア5型の戦闘機があったが、数が足りなかった。
大英帝国は破綻寸前。
複葉機って、第一次世界大戦のだな。旧式。
しかし、ソードフィッシュは、あのナチスの誇る超弩級戦艦ビスマルクを撃沈した。
だが、ツェルベルス作戦の時はソードフィッシュは6機出撃したがドイツの戦艦シャルンホルスト、戦艦グナイゼナウ、重巡洋艦プリンツ・オイゲンの三艦に見事にドーバー海峡を通過されてしまい、挙げ句にはドイツの戦闘機に全機、撃墜される様だった。
やはり複葉機ではアカン。
逆に、この時の日本は世界最優秀の戦闘機ゼロ戦に練度最優秀のパイロットという見事な航空部隊だった。
セイロン沖海戦の時はまだ、これらの最優秀パイロットが存命で、絶頂期だった。
太平洋に向かい、どんどん落命するが…
真珠湾奇襲攻撃にも出撃した淵田美津雄中佐が率いる第一航空艦隊の攻撃隊は
九七艦攻54機
九九艦爆38機
が、37機のゼロ戦に護衛されコロンボ上空で空襲した。
コロンボ攻撃隊
赤城からは淵田美津雄中佐が総司令官
蒼龍からは阿部平次郎大尉
飛龍からは楠美正少佐
瑞鶴からは坂本明大尉
翔鶴からは高橋赫一少佐
制空隊
赤城からは板谷茂少佐
蒼龍からは菅波政治大尉
飛龍からは熊野澄夫大尉
瑞鶴からは牧野正敏大尉
艦船攻撃
赤城からは阿部善次大尉
蒼龍からは江草隆繁少佐
飛龍からは小林道雄大尉
飛行士マニアの方には知れた名前ばかり。まあ、タレント揃いだ。
しかし、東洋艦隊は既に
アッドゥ環礁に移動中でコロンボにはわずかな駆逐艦、仮装巡洋艦、潜水母艦、潜水艦があっただけでやはり、淵田もミッドウェー島攻略作戦の友永丈市と同じく物足りなく感じ
「第二次攻撃の要あり」
と南雲の司令部に打電した。
これを受け、南雲中将は第五航空戦隊の空母翔鶴、瑞鶴に魚雷兵装待機中の九七式艦上攻撃機の魚雷を爆弾に変えるよう命じた。
しかし、コロンボ攻撃隊の収容中に索敵中の水上偵察機がイギリスの巡洋艦2隻を発見したと打電してきた。
また、他の水上偵察機もイギリスの駆逐艦2隻、発見と打電してきた。
南雲は、爆弾から魚雷に、再び転換命令を下した。
ミッドウェー海戦と同じ(汗)。
しかし、この時は日本の最優秀パイロットが素早く、イギリスの巡洋艦を発見した。
故障中で港での修理が必要だった為、日本の空襲が終わる迄、コロンボ港の近くで待機していた。
そこを江草隆繁の率いる九九艦爆の急降下爆撃により
が、わずか10数分で大破。
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この時は、ミッドウェー海戦の反対。
日本の急降下爆撃機がイギリスの重巡洋艦を瞬殺した。
命中率85%で艦爆の神様、江草隆繁、と呼ばれた。
4月9日にはトリンコマリー軍港の空襲をする。
やはり故障中のイギリス空母ハーミズが、軍港トリンコマリーでの修理が必要で駆逐艦ヴァンパイアとともに一時退避していた。
日本の空襲が終わったと見るや、トリンコマリーに引き返す最中に、日本の索敵機に発見され、同じく瞬殺で爆撃機に大破された。
しかし、イギリスは、単にバトル・オブ・ブリテンで疲弊していたに過ぎない。
それにイギリスは敗れたが日本が次はトリンコマリーに空襲する暗号は解読していた。
暗号解読されたり、混乱し急な兵装転換を命じたりミッドウェー海戦で南雲はまた同じ状況に陥るが、次は国力温存した意気揚々のアメリカだ。
そうとも知らず日本海軍はインド洋から撤退し、米豪遮断を目指しMO作戦へと太平洋に向かってしまう。
ドイツのクルト・フリッケ海軍軍令部長は、この絶好のタイミングで日本がインド洋作戦を中止した事を大変、嘆いたそうだ。
独ソ戦の挟撃反故ではリッベントロップ外務大臣やオット駐日大使を嘆かせたんだよな。
そして日本はこの2ヶ月後のミッドウェー海戦で、自らが嘆くことになる。
飛龍だけのミッドウェー海戦
ミッドウェー島攻略作戦(MI作戦)
南雲忠一中将率いる南雲機動部隊こと第一航空艦隊の空母 赤城、加賀、蒼龍、飛龍が1942年5月27日、海軍記念日に広島湾の柱島泊地から出発。
ミッドウェー島付近まで到着したところで空母飛龍所属の友永丈市を飛行隊長とする
九七式艦上攻撃機、36機
九九式艦上爆撃機、36機
零式艦上戦闘機(零戦)、36機
の合計108機が、ミッドウェー島を空襲する為、それぞれの空母から発進。
1ヶ月半前にあった4月18日のドーリットル空襲のリベンジ、いや、結果論、挑発された奇襲になった。
本来は真珠湾奇襲攻撃と同じく淵田美津雄が総指揮官となるはずだったが、淵田は虫垂炎の手術を行ったばかりで出撃できなかった。
暗号解読で事前察知していたアメリカは既に待ち構えており、ミッドウェー島の航空機を日本の空母に向けて発進し島内は空、真珠湾奇襲攻撃と違い、態勢が整っていたアメリカ側は日本の空襲を撃退した。
それを成果が足りなく感じた友永は
「第二次攻撃の要あり」
と、南雲の司令部に電報を打つ。
ここで、真珠湾奇襲攻撃の経験者、淵田美津雄だったら友永より、もっと上手く先を読めたか?
とも、思ったりするな。
空母同士の戦いは、ミッドウェー海戦の1ヶ月前の珊瑚海海戦が世界初。
ミッドウェー海戦は世界的にも二番目の空母同士の戦いだそうだ。
空母戦の場合、動く航空基地で、動く、意味とは敵に奇襲をかけられることであり、よって、先に発見したが勝ち。
逆に言えば絶対に、敵に存在を知られてはならない怖さがある。
しかし、山本五十六の考えは希望的観測だけで、敵の空母はハワイ基地にいる。と決めて暗号解読はしない。索敵はおおざっぱ。図上演習は改ざん隠蔽。
現実は敵空母はミッドウェー島の近くで待ち伏せていた。
友永の電報で魚雷から爆弾に兵装転換していた数十分後に味方索敵機から
「敵、空母、発見。」
ここで南雲忠一は敵の空母が近くに存在する
現実
を、ようやく
認識
した。
更に
南雲忠一は、そこでまた
爆弾→魚雷
に、兵装転換を命じた。
バカだ。
兵装転換がスイッチ一つなら、それで良いが、90分位かかる、大変な力仕事なのだ。
山口多聞は南雲忠一に
「現装備のまま、攻撃すべき」
と、電報を打ったが却下された。
この時、ジョン・サッチ飛行士がグラマン社のF4Fワイルドキャット戦闘機でゼロ戦撃退のドッグファイト、いや
サッチウィーブ
なる、絡み方をしてきた。
サッチウィーブとはゼロ戦一機に対し二機でS字に交互に絡み、一機に気をとられたゼロ戦に、もう一機が後ろに付き、撃退
$
↑
ドルだな(笑)
それだけゼロ戦は世界的に優れた戦闘機だと恐れられていた。
合理的なアメリカ人は研究し、このミッドウェー海戦でジョン・サッチ考案のサッチウィーブを初採用した。
初めて実戦したサッチウィーブに、ゼロ戦は混乱し、アメリカのドーントレス急降下爆撃機を通過させてしまった。
そして
空母三隻
加賀
蒼龍
赤城
が一気に大破した。
残った空母飛龍の山口多聞は
「これより、ワレ航空戦の指揮を取る。」
と、宣言。
飛龍だけは、万が一の敵の襲来に備え、少し距離を置いていた為、助かっていた。
山口多聞の指揮下、友永丈市飛行隊長は
友永雷撃隊
と、艦上攻撃の魚雷を兵装した九七艦攻、他、10数機で空母ヨークタウンに向かった。
空母ヨークタウンからは先にサッチウィーブで翻弄してきたジョン・サッチのグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機らが出撃。
サッチのグラマンからの機銃弾が友永の九七艦攻に命中。
両翼が炎に包まれた中、友永機は空母ヨークタウンの数メートル手前で墜落。
友永機の投下した魚雷も実は当たらなかった、とも言われている。
しかし、他の雷撃隊の魚雷が三発、ヨークタウンに命中し、今度こそ大破した。
だが、アメリカの見事なダメージコントロールで応急措置をし、更にそこから残りの航空機を発艦した。
その時の航空機が飛龍を大破し、飛龍も撃沈に至る。
ヨークタウンを珊瑚海海戦で撃沈してれば
真珠湾奇襲攻撃の時にドッグも破壊しとけば
友永ではなく淵田が隊長だったら
空母赤城の南雲忠一は軽巡洋艦、長良に移動し、生きたが、空母飛龍の山口多聞と艦長の加来止男は飛龍と運命を共にした。
しかし
日本は当時、世界最新鋭の酸素魚雷を持っており潜水艦、伊号第百六十八が復讐に入る。
酸素魚雷とは雷跡が出ず敵に察知されない上に推進力に優れた圧縮酸素を使用した世界唯一のもので、速力40ノット、射程距離4,000メートル、炸薬量500キロで当たれば莫大な威力を発した。
太平洋戦争では主に九三式酸素魚雷と潜水艦用の九五式酸素魚雷が実用された。
1971年に放送された太平洋戦争のアニメ「決断」の中に、この潜水艦、伊-168の話がある。
このアニメで伊-168の田辺弥八艦長が言うセリフ
「駆逐艦の音をたどっていけば良い。」
空母ヨークタウンは大破しスクリューを回してない為、音を察知することが出来ない。
しかし、修理の為に横付けしている駆逐艦ハムマンの音をたどっていけば発見できる、と。
駆逐艦ハムマンの走行音を察知した伊-168は九五式酸素魚雷をハムマンに命中させた。
そして爆雷の誘爆でヨークタウンの水線下の損害が拡大し、翌朝にヨークタウン撃沈に成功する。
田辺弥八 艦長の極限状態における冷静沈着で大胆正確な指揮能力は見事だった。
ヨークタウン旗艦のフレッチャー提督はアメリカでは、珊瑚海海戦につぎ、ミッドウェー海戦ではとうとう空母ヨークタウンを撃沈させたダメ提督として認定されているそうだ。
更にフレッチャーの次の仕事、ガダルカナル島の防衛、ソロモン沖では第一次ソロモン沖海戦で味方重巡洋艦を4艦も撃沈され三川軍一の第八艦隊を追撃せず、取り逃がし、第二次ソロモン沖海戦では空母ワスプを伊-19の酸素魚雷で撃沈され
慎重過ぎてダメな提督
と、アメリカ海軍のトップ、アーネスト・キング大将から判断され、現場から更迭。
逆にミッドウェー海戦で空母エンタープライズから指揮したスプルーアンス提督は出世し、今でも太平洋戦争の功績を称えられているそうで、だから、今度の映画「ミッドウェイ」
にはフレッチャー提督は出ないんだな、と(笑)。
しかし、日本側にしたら、第一次ソロモン沖海戦の三川軍一は敵輸送船は撃退せず逃げた、栗田ターンならず、三川ターン、と思う訳で(笑)
空母ヨークタウン撃沈も、また、ミッドウェー海戦のエピソードの一つです、ハイ(笑)。
伊-168の田辺弥八 艦長が主人公の小説があります。
池上司 著「ミッドウェイの刺客」
ミッドウェー海戦の山場
ミッドウェー海戦は太平洋戦争の
転機
とされる海戦だが、ナゼに、日本海軍は主力空母、四隻を太平洋のど真ん中に侵攻させていたのか?
真珠湾奇襲攻撃が占領もせず、旧式戦艦しか破壊しない中途半端で、やり残した事をしようとしたからだ。
ドイツがダンケルク撤退を許してしまって、後、イギリスが優秀な人員消耗を免れ、いちいち邪魔立てし、海中に隠れるUボート以外、身動きとれない状態になったのと一緒だな。
密接した欧州同士なら、分かるが日本の場合、自国から、わざわざ太平洋に出なきゃ大丈夫なんだけど。
しかし、ミッドウェー海戦の日本は、わざわざ誘導の罠に引っ掛かってくれる
格好のカモ
になった(泣)。
まず、1942年4月18日、空母エンタープライズ、空母ホーネットからドーリットル空襲をし、アメリカは空母で日本本土へ空襲出来るんだぞ!
と、威嚇、挑発した。
日本は、1942年4月5日~9日はセイロン沖海戦でイギリスに勝ち、イギリスの東洋艦隊をインド洋から撃退し、このまま行けばスエズ運河を抑えられた。
しかし、アメリカのドーリットル空襲に、まんまと挑発され、山本五十六の連合艦隊は、なんと、絶好調のインド洋を捨てて太平洋に向かってしまった。
イギリスはダンケルク撤退作戦の時にナチスが手を緩めた成功と、この時、日本海軍がインド洋から撤退した、二回、ツキがあったんだな。
最初、アメリカは日本は太平洋ならオーストラリアとの遮断でフィジー諸島に攻めてくると読んだ。
しかし、電波盗聴から暗号解読し
FA?
FAとは何処だ?ミッドウェー島かな?
ミッドウェー基地から
「真水が不足している。」
と、試しに偽電報を送信したら
日本がそれを受信し
「これから攻めるFAは真水不足してますよ~。」
と、日本本国に打電した。
アメリカがそれを受信。
日本はまんまと罠に引っ掛かった。
間違いない、FAとはミッドウェー島だ
この話は戦史マニアには有名だが、ニミッツ提督の情報参謀エドウィン・レイトンの自伝がソースらしく、信憑性は?らしい。
だが、まあ、どのみち日本国内でも庶民レベルで
「次はミッドウェー島に攻めるんですってね。」
と、風の噂があったらしく、もっと悪い(笑)。
真珠湾奇襲攻撃から連勝連勝で、調子に乗って、口も軽くなっていた、完全に気が緩んでいた。
アメリカは暗号解読から日本艦隊がミッドウェー島に侵攻してくると待ち伏せに入る。
1942年5月下旬
第17任務部隊の空母ヨークタウンCV-5のフランク・ジャック・フレッチャー少将
と
第16任務部隊の空母エンタープライズCV-6と空母ホーネットCV-8のレイモンド・スプルーアンス少将の空母三隻でハワイ基地から出撃し、待ち伏せ態勢に入った。
空母ヨークタウンは約1ヶ月前の5月8日の珊瑚海海戦の時に、日本が大破したと勘違いした空母だ。
珊瑚海海戦は日本はセイロン沖海戦で疲れた主力、南雲機動部隊に代わり、第五戦隊とサブパイロットだった為、引き分けとなった。
もし、南雲機動部隊だったら、江草隆繁など名パイロットの腕で空母ヨークタウンは撃沈出来たろう。
セイロン沖海戦で江草隆繁はイギリスの空母ハーミーズ、重巡洋艦ドーセットシャー、重巡洋艦コーンウォールを撃沈している、日本人がイギリス人より男前になった瞬間だったな(泣)。
で、一流気取りで、珊瑚海はサブにやらせとくわ。←ここにも日本の余裕綽々な気の緩みがアダとなった。
で、サブにやらせたら空母ヨークタウンは大破ではなく中破程度で、アメリカの神速技、ハワイで突貫工事、3日で修理し生き返った。
前の前を言えば、真珠湾奇襲攻撃の時にドッグも破壊しとけば、ヨークタウンの突貫工事は防げた。
ミッドウェー作戦のため、空母飛龍に所属の第一航空艦隊の友永丈市飛行隊長はミッドウェー島を空襲する第一次攻撃の時に、ミッドウェー基地にいっさい航空機がない事に不信を持った。
すなわち
ミッドウェー島は囮だった。
急ぎ友永は、南雲機動部隊に
「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」
と打電。
この報告を受けて、南雲忠一はミッドウェー島に第二次攻撃すべく航空機の武装を
対艦用(魚雷)から対地用(爆弾)
に兵装転換する命令を発した。
しかし、これが日本の敗因の一つになったのだ。
有名な南雲忠一の二度の兵装転換。
魚雷→爆弾
爆弾→魚雷
フレッチャー少将の方は、日本の爆撃機がミッドウェー基地を攻撃し終わるまで、日本の空母部隊への攻撃を待ち
クラレンス・マクラスキー中佐率いる空母エンタープライズからの第6急降下爆撃中隊、第6偵察中隊
と
マックス・レスリー中佐率いる空母ヨークタウンからの第3急降下爆撃中隊のドーントレス30数機を日本の艦隊に殺到させ
まず、空母加賀
次に、空母蒼龍
そして、南雲忠一旗艦の空母赤城
急降下
急降下
急降下
急降下
急降下
急降下
急降下
急降下
爆弾投下し
三隻一気に大破した。
時間で5分位
カップ麺が出来上がる位の時間での出来事だった(泣)。
爆弾→魚雷してる最中だから、飛行甲板に爆弾が、ガソリンが置きっぱなしで、爆発しまくり、そりゃもう凄い破壊力となった。
しかも、後、五分あれば兵装転換が完了し日本の空母から航空機が発進したのに、という、たられば
運命の五分間
という伝説がある。
フレッチャー少将がミッドウェー基地攻撃終了まで待ったのは、日本側が、このように混乱するだろう、という作戦からだった。
またも、まんまと敵の術中にハマってしまった(泣)。
9月11日に公開のローランド・エメリッヒ監督の映画「ミッドウェイ」は、そこら辺を見事なCGで(笑)描いてますね。
山本五十六が豊川悦司ではフェロモンが有り余る(笑)
名将、山口多聞なのに浅野忠信ではアパレル会社の社長クサイな(笑)。
しかし、山口多聞は急な事態に兵装転換やってる場合じゃないと、賢明な判断下します。←フレッチャーの罠に引っ掛からない端正さをイケメン俳優で表現してくれましたね。
山口多聞の旗艦、飛龍は兵装転換せず、しかも、他三隻より少し離れていた。だから、最後、一隻残った。
万が一、敵の襲来を考え、離れておく必然性をちゃんと実行した、名将、山口多聞です。
二度の兵装転換を指示する、マヌケ、これはイメージにぴったりだ(笑)。
レイモンド・スプルーアンス少将、ジェイク・ウェバー
ジミー・ドーリットル中佐、アーロン・エッカート
主人公はドーントレス急降下爆撃機で空母赤城に爆弾投下するディック・ベスト大尉(エド・スクライン)
だそうだ。
この映画はフレッチャー提督も友永丈市飛行隊長も出ないのだが、ミッドウェー海戦の最大の山場は、フレッチャーの罠にはまらなかった名将、山口多聞の空母飛龍が、残り一隻となり、珊瑚海海戦で大破したと信じていた空母ヨークタウンに旗艦する罠を仕掛けたフレッチャー提督と最後、奮戦するところだ。
であり、パイロット同士なら
友永丈市vsジョン・サッチ(サッチウィーブ)
空母飛龍から友永丈市が「友永雷撃隊」長となり、ジョン・サッチのサッチウィーブを交わしながら空母ヨークタウンに特攻がクライマックスだと思うが、アメリカ映画だからか省略して、代わりに駆逐艦 巻雲が拿捕したアメリカ人を大敗の腹いせに、錨着けて海に投げ落とす場面がある。
中国資本の映画だそうです(笑)。
しかし、空母ヨークタウンは日本の潜水艦、伊-168の魚雷で撃沈される。
合理的なアメリカ人のフレッチャー少将は日本人的美徳の山口多聞のように艦と運命を共にせず、マヌケな日本人南雲忠一のように、逃げて生きます(笑)。
山口多聞と友永丈市の最後の意地が伊-168によって晴らされるあたりを日本側は最大のクライマックスだと思っております、ハイ(笑)。
ダンケルク撤退作戦とツェルベルス作戦
1940年4月、ヴェーザー演習作戦としてドイツ国防軍がノルウェーに侵攻し、鉄鉱石の資源の要所キルナ近くの不凍港ナルヴィクを抑えた。
しかし、既にナルヴィクは冬戦争でイギリス軍が駐在しておりイギリス海軍と挟まれドイツの上陸部隊は孤立した。
しかし、1940年5月にフランスに侵攻したドイツは連合国軍を窮地に追いやり、連合国軍はダンケルクからドーバー海峡を渡りイギリスに撤退せざるを得なくなる。
1940年5月26日から6月4日に行われた
フランスの海岸都市ダンケルクから338,226人のイギリスおよび連合国の兵士をドーバー海峡を渡りイギリスに撤退させた。
結果、大成功します。
ヒトラーは、ダンケルク撤退作戦の時点ではイギリスと早期講和を考えており、空軍のみで撤退を阻止。
やろうと思えばダンケルクの海岸に追い詰めた連合国軍を装甲部隊で殲滅することが出来た。
たられば、たが、その後の独ソ戦の苦戦を考えたら、先にイギリスを一掃し西部戦線を安泰にしとけば良かったが、ヒトラーはイギリスとは早期講和が出来るものとしか考えなかった。
2017年のクリストファー・ノーラン監督の映画「ダンケルク」でも、その大成功っぷりは描かれている。
ドイツの阻止は空軍のメッサーシュミットとUボートの魚雷しか出てこない。
ドイツの判断の甘い手抜きにより、連合国軍338,226人中、30万人以上と殆どがイギリスに撤退に成功した。
ちなみにイギリスとフランスのドーバー海峡の最短距離は約40kmで船で2時間位で渡れるそうだ。
しかし、ナルヴィクのドイツ国防軍もイギリス海軍がダイナモ作戦に従事する為、包囲から解放されノルウェー占領に至る。
イギリスは、もちろん早期講和なぞする気はないので、後、ドイツはイギリスに手こずる。
ダンケルク撤退の時、やっときゃ、なんのことはなかったのに。
おかげで1940年7月から10月にかけての空軍同士のバトル・オブ・ブリテンではドイツは第二次世界大戦で初めて敗北してしまう。
ここでイギリス空軍に敗北しイギリス海峡の制空権はイギリスのものとなってしまった。
バトル・オブ・ブリテンは映画「空軍大戦略」に詳しい。
ロキシー・ミュージックのファーストアルバムにバトル・オブ・ブリテンの曲がある「The BOB」←Battle of Britainの略
ブライアン・フェリーが第二次世界大戦の、重要な好転を、アバンギャルドに歌ってます。
よってドイツはせっかく占領したフランスの軍港ブレストに軍艦を停泊させることが難しくなった。
制空権をとられ常にイギリス空軍からの空襲に悩まされるからだ。
大西洋で通商破壊作戦を終えた戦艦シャルンホルストと戦艦グナイゼナウは1941年3月下旬にブレスト軍港に到着した。
早速、イギリス空軍は攻撃を開始。
1941年4月6日に戦艦グナイゼナウが魚雷攻撃を受け修理に入る。
7月には戦艦シャルンホルストも重巡洋艦プリンツ・オイゲンも空襲により被弾した。
しかも、先の1941年5月27日にはデンマーク海峡海戦で勝ったも追撃戦でナチスが誇る超弩級戦艦ビスマルクが撃沈されている。
これにはヒトラーも真剣になった。
占領したノルウェーは絶対、維持したいヒトラーは、1942年2月11日から13日のツェルベルス作戦で
(連合国側は「チャンネルダッシュ」と呼ぶ。チャンネル諸島付近をダッシュ=駆け抜けた、という意味。)
戦艦シャルンホルスト
戦艦グナイゼナウ
をノルウェーを牽制出来るバルト海に面したキール軍港に移動する作戦を実施する。
ツェルベルスとはギリシャ神話に出てくる地獄の番犬ケルベロスのドイツ語読みだそう。
ケルベロスは三頭の巨大な犬で尾は竜で、たてがみは蛇なんだそうだ。
かなり気持ち悪い生き物だな。
この三艦ことブレスト艦隊のイメージに合った3つの頭を持つ架空の動物なんだな。
この時、移動手段として、最短距離の直線にドーバー海峡通過をドイツ海軍のレーダー提督は反対した。
モロにイギリスの制空権の手中で機雷もうようよしている。
イギリスを迂回しスカパ・フロー通過の方が、まだマシだとした。
ブレスト軍港に停泊していた
戦艦シャルンホルスト
戦艦グナイゼナウ
はドイツ空軍の護衛と共に、機雷に当たりながら、スピットファイアやソードフィッシュの襲撃を撃墜しながら21時間後、無事にキール軍港に到着した。
しかし、キール軍港に到着するも、やはりイギリス空軍の空襲で、戦艦グナイゼナウは13日後の1942年2月26日に空襲を受けて大破し廃艦となった。
戦艦シャルンホルストはキール軍港から更にノルウェーに避退する最中、翌年1943年12月26日の北岬沖海戦で撃沈された。
プリンツ・オイゲンは同じくノルウェーに避退したが潜水艦に雷撃されて中破。
戦後、水爆実験の標的艦にされた。
イギリス側の裏をかくよな大胆不敵な白昼のドーバー海峡通過だった。
イギリスは自国の優秀なレーダーを過信し、夜間ならまだしも昼間にまさか堂々とドーバー海峡を敵の主力戦艦が通過するとは思わず、昼寝していた?いや、気を抜いてしまいドイツの妨害電波に惑わされたとか。
ヒトラーの突発的な野生の勘は、この通過作戦では当たった。
ヒトラーはツェルベルス作戦の計画の時
「イギリス人というものは、突発的な出来事にまともに対応できるような人種ではない!」
と、ウソぶいて鼓舞したとか(笑)。
しかし、1942年2月15日、まさにチャンネルダッシュと同じ時期にあった日本のシンガポール陥落の時は
「イギリスに三十個師団の援軍を送りたい気分だ。」
今さら、まだイギリスを思いやる(笑)。
1941年12月10日にあったマレー沖海戦では、黄色人種がイギリスの誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈したことを嘆いたとか。
マレー沖海戦の半年前に既に戦艦ビスマルクをイギリスに撃沈されてるのに、よく嘆いたよな(笑)。
同盟国の日本に報復してもらった事を感謝しろよ(笑)。
ヒトラーは統合失調症だったらしいが、多分、本当にそうだったんだろうな(笑)。
イギリス人の臨機応変の無さを言うだけあり(笑)作戦も発言もムラがスゴい。
一番、良かったのはダンケルクでイギリスを一掃し、日本と挟撃で独ソ戦、または、北アフリカ戦前とインド洋で挟撃だった。
1941年12月からの日本のマレー侵攻作戦がことごとく成功したのはイギリスはバトル・オブ・ブリテンにより航空機不足となった為で、ダンケルクで一掃してくれてたら、更にイギリスは疲弊していた。
イギリスはイランから独ソ戦の救援物資や石油もソ連に援助していたから、日本が太平洋に行かずインド洋だけ重視なら遮断出来たな。
インドやビルマまで独立させてたんじゃないか?
日独伊三国同盟って、ドイツがソ連を攻めたら日本は自動的にソ連が敵になるが、松岡洋右がわざわざ日ソ不可侵条約を締結してしまって、やれなかった。
逆に日本が真珠湾攻めても、ドイツはアメリカにわざわざ宣戦布告しない限り
自動的にアメリカが敵
には、ならないらしく、なのにわざわざドイツはアメリカに宣戦布告したり、もはやこの噛み合わせの悪さは
大凶(笑)。
イギリスも戦後、植民地を殆ど失い、勝っても疲弊しただけだったが、ならば、アメリカを参戦させずにイギリスを挟撃してれば、枢軸国は勝ったな?
クリストファー・ノーランの映画「ダンケルク」も撤退作戦の現場最高指揮官のケネス・ブラナーが
「祖国だ。」
(祖国イギリスから民間船が、沢山、救援に到着したのが望遠鏡から見えた。)
このセリフが、イギリスの、転機=大吉、を象徴していた。
おかげで苦労するツェルベルス作戦の様子はこのような小説があります。
映画「黒い潮」と小説「日本の黒い霧」
1954年の日本映画「黒い潮」観賞。
内容は国鉄総裁が轢死体で発見された事件、下山事件をモデルにした新聞記者の話。
下山事件の現実は
東大法医学教室の古畑 教授の死後轢断(殺してからレールに乗せた)、他殺説
と
東京都監察医務院の八十島信之助 医師(ちなみに八十島医師は慶応大卒)と
慶應義塾大学医学部の中館 教授の
生体轢断(生きて自ら列車に轢かれた)、自殺説
で争っていたが迷宮入り。
で、このフィクションの映画も主人公の新聞記者の
自殺説
を、謎の大物勢力によりあやふやにされ、新聞記者は福岡に左遷されて終わる。
1954年の映画だが、松本清張の「日本の黒い霧」が1960年初版だから松本清張より6年前に下山事件を扱った映画となる。
この映画では他殺か自殺かで社説、世論が揺れる中、主人公の取材班は自殺説で新聞発表しようとする。
そして警察も
「正式に自殺の方向で発表する!」
と、自分達が正解だったと喜んだ翌日に
「警察が発表を取り止めました。」
で、主人公の新聞記者は急な福岡への左遷。
送迎会でむなしく黒田節を唄ってくれる同僚に
「なんで責任を負わなきゃならないの。」
と、涙してくれるお茶汲み女子社員。
しょんぼりする主人公。
で、終わる。
警察発表を止める事が出来る大きな勢力=GHQ
GHQは自殺ではなく、共産主義系の労働組合の連中の犯行にしたいのだ。
GHQは冷戦経過の都合上、日本の民主化の政策を急転する(逆コース)。
1945年から始めた占領で民主化し過ぎた社会主義的な改革を、改めなければならなくなった。
その為には、先にGHQ自ら改革で設定した労働組合の推奨により強大化した労働組合員が邪魔だった。
これを言ったのがこの映画の6年後、文藝春秋から出版された松本清張著
「日本の黒い霧」
今や松本清張のおかげで下山事件のGHQ犯行説?は、真偽はともかく誰でも知ることだが、この映画は謎の大物勢力が一体、何であるか匂わす事もせず、ただ急に警察発表中止で主人公は左遷、終わり。だった。
公開当時の1954年は、1951年に締結したサンフランシスコ講和条約で占領が解けて3年目。
朝鮮戦争が停戦調停して1年目だ。
当時としてはタブーをついた革新的な映画だったのか、既にGHQだろうけど言っちゃイカンだろ、な空気はあったのだろうな。
未だに下山事件の本は多数、出版されているが中でも松川事件の被告になった佐藤一さんの
「松本清張の陰謀―『日本の黒い霧』に仕組まれたもの」
では
「結局やっぱり自殺だったんじゃないか。」
と、本末転倒する。
佐藤一さんは、元、東芝の労働組合に所属していた松川事件の冤罪被害者(死刑判決を受け、後、無罪)だけあり、今や左派に寄った間違いだらけの「日本の黒い霧」に松本清張の共産主義、左派へ都合の良い方向への解釈が、影響力ある言論人として無責任だと、確信犯的な罪を厳しく突いている。
実は間違っていた松本清張を、無責任なレッテル張りと、共産主義犯行説をカモフラージュした害悪だったと言いたいのだろう。
リアルタイムで作家の大岡昇平も「日本の黒い霧」の感情的にGHQに責任転嫁しているのを糾弾している。
で、今や大岡昇平が当たりだった(笑)。
1960年って、まだ未知数の北朝鮮を共産主義が成功した国だと、左派が高らかに語ってた時代だもんなあ(笑)。今、思うとかなりヤバイ人達になる(笑)。
まあ、時期的に1960年1月に日米安全保障条約が締結され安保闘争が盛り上がった、左派に共産主義のスポンサーがいた、左派お祭り騒ぎだった時代。
中国は毛沢東の文化大革命が兆しを見せる、冷戦期に共産主義陣営が猛威をふるった時代だもんな。
で、安保闘争ブームの中、「日本の黒い霧」の1960年の初版は小説家がノンフィクションに鋭く斬り込む革新的な作品と見られたらしい。
政界の汚職、不祥事やプロ野球の八百長に“黒い霧“という言葉が使われた黒い霧ブームが起こった。
今だったら流行語大賞だな(笑)。
しかし、時が経過し、朝鮮戦争はソ連崩壊の時、公式記録が発表され、スターリンに許可を取った金日成の主導の元、北朝鮮から仕掛けたものだったと明らかになった。
GHQ陰謀の総仕上げと書いてしまった松本清張は大変な大間違いをベストセラーにしてしまったんだな(笑)×。
伊藤律のゾルゲ事件の発端ユダ説も、松本清張に特高のスパイだったと書かれたが、後、伊藤律さんが監禁された中国から帰国し、ゾルゲらとは無関係だった真相を話したりで間違い発覚×。
これは名誉毀損になり、伊藤律さんのご遺族から抗議があって、2013年から文藝春秋社は「日本の黒い霧」に、お詫びと訂正を記載して出版している。
ちなみに、今では、松本清張の方こそ日本共産党とのつながりで日本共産党の幹部を守る為、あえて伊藤律ユダ説を書いたんじゃないか?という逆疑惑も言われている(笑)。
野坂参三、宮本顕治とはズブズブで、既に真相はご存知だったでしょうに(笑)?
でも、しかし、占領期の猥雑感、暗黒感は松本清張先生にしか書けない。昭和の臭い。
松本清張先生はニューギニア島送り未遂(戦局の悪化で中止された)で、朝鮮半島で終戦した陸軍衛生兵上がり。
ニューギニア派兵だったら、第18軍所属か。アイタペの戦いで餓死かマラリア感染だな。
もしかしたら松本清張先生は戦死だったかも知れないな。平成の平和ボケした作家とは根性が違うわ。
そんな松本清張の醸し出す“雰囲気“に価値を見出だす
共産主義が猛威を奮った時代の
雰囲気小説
なんだと思う。
イヴ・シャンピ監督「スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜」鑑賞
京橋の国立映画アーカイブで「スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜」を鑑賞してきた。
DVD未発売で前々から気になってた作品でした。
リヒャルト・ゾルゲが
日本が北進政策をとらず(ソ連には攻めない)、南進政策をとる。
と、モスクワに打電し、スターリンが安心し、ソ満国境に置いた30個師団をシベリア鉄道でモスクワへ派兵しナチスの東部戦線崩壊のきっかけをつくった話は有名。
この映画でも1939年のノモンハン事件や1941年の関東軍特殊演習の話が出てきて、ゾルゲが
「関特演なんか、目眩ましの基本だ。日本はソ連に攻めるそぶりだけで攻めないね。」
と、日本の関特演になんか、騙されないね~、と、有能スパイっぷりをアピールしていた。
更にこの映画のゾルゲは1941年10月の段階で日本は2ヶ月以内に真珠湾奇襲攻撃をやる
と、一流スパイの勘だけで暴走(笑)。
スパイ仲間の打電の名人、クラウゼンにソ連側にその情報を送った、最大の仕事をしたぜ!
の、得意の絶頂のところで、他のコミンテルン仲間の日本画家、宮城与徳が特高の共産主義狩りで検挙され、ゾルゲがソ連のスパイなのを白状してしまい、ゾルゲらソ連のスパイは逮捕される。
しかし、果たしてゾルゲは日本で処刑されたのか?
と、謎を残して終わり。
ポイントが
ゾルゲが日本で処刑された?
いや、実は捕虜交換でソ連に帰国していたかも?
な、ゾルゲの生死の謎で終わった。
この映画のゾルゲの日本人の彼女はカフェのウェイトレス石井花子ではなく、男爵夫人の桜井優希(ゆき)で岸惠子が演じていた。
当時のシャンピ監督夫人で、出だしの男爵夫人役、岸惠子は気品溢れる和服美人で、痩身で和服を見事に着こなす細面のキツネ顔は肉感的な白人女優より美しかった。
真珠湾奇襲攻撃の情報提供は007のジェームズ・ボンドのモデルになったイギリスとナチスの二重スパイ、ドゥシャン・ポポヴも有名。
ポポヴはドイツのスパイに成り済まし、ドイツ滞在中に同盟国、日本が真珠湾を攻める可能性があることを察知、FBIのフーバー長官に報告したが、ポポヴの派手な私生活を良く思わないフーバー長官は、この情報を信用せず上のルーズヴェルト大統領には上げなかったらしい。
真珠湾奇襲攻撃は山本五十六の気まぐれで、当初の計画ではフィリピンに攻める予定を直前で急変した唐突なものだったが。
ポポヴの真珠湾情報も、真偽、いろいろ説がある。
まあ、どのみちルーズヴェルト大統領は
日本から奇襲で戦争仕掛けてきた
という、いちゃもんが欲しかった訳でゾルゲもポポヴもそこは余計な仕事だったか。
あと、日本にもユダヤ人迫害を迫った、ポーランドでのホロコーストを派手にやったゲシュタポ上がりのマイジンガー駐日ドイツ大使館付警察武官が出ていたが、ゾルゲをドイツの有力新聞社、フランクフルター・ツァイトゥングの特派員だと信じ込んで顧問にする位、信用していた。
そんな信頼するゾルゲを怪しんでドイツ大使館にまで執拗に捜索に入る日本の防諜部長の大佐に対し
「我々、ゲルマン民族は世界最高の民族だ。
小汚ない劣等民族め。」
と、発言する場面はサスガ、ホロコーストの達人(苦笑)。
マイジンガーは終始、劣等民族の国、日本赴任が嫌嫌で、ゾルゲにも
何とかして私を本国に帰すよう出来ないか?
と、頼るセリフがあった。
けど、マイジンガーは終戦迄、日本に駐在で、終戦直後は河口湖畔の富士ビューホテルに疎開中、連合軍に検挙され、ポーランドのワルシャワで裁判にかけられホロコーストの罪で絞首刑となった。
日本側も、オイゲン・オット駐日ドイツ全権大使が近衛文麿首相と松岡洋右外務大臣に対して
と、懇願するも
近衛文麿首相が
考えとくわ
と、素っ気ない返事する場面もありました(笑)。
オット駐日全権大使も、ゾルゲをすっかり信用してしまい、ゾルゲに独ソ戦開始の情報が伝わり、2日前にはゾルゲがソ連側に、ナチスが2日後に侵攻する打電をしていた。
ドイツ側から頼まれた独ソ戦の挟撃、または北アフリカ戦線とインド洋で挟撃でも良かったんだけど、駐日ドイツ人らも見事に騙したゾルゲらコミンテルンの暗躍が見事だった訳か(笑)。
スバス・チャンドラ・ボースの死
最近、1982年のアカデミー賞を総ナメした映画「ガンジー」を鑑賞した。
主役のマハトマ・ガンジー役をベン・キングズレーが青年時代から78歳で暗殺迄を演じたが、老化がリアルで見事だった。
ベン・キングズレーはこのガンジー役でアカデミー最優秀主演男優賞を受賞したが納得。
「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」
これは聖書の「マタイによる福音書 5章38ー42節」にある、お言葉で、大変綺麗事で心が洗われるんだが、これと同じ位の綺麗事で現実はインド独立の時、イスラム教地区(パキスタン)と領土問題で内紛を起こし、インドとは別にパキスタンとして独立し、果ては両国共、核保有国と発展。
第二次世界大戦の時、ガンジーは時間あったろにイスラム教との融和、上手な独立の仕方を考慮出来なかったのは、崇高な仙人でしかないかな。
逆にスバス・チャンドラ・ボースは巧く立ち回った。
第二次世界大戦が勃発し、ナチスがイギリスを攻めた時、日本の仏印進駐みたいにするべくドイツに行きヒトラーにインドの独立援護を懇願した。
しかし、人種差別主義者のヒトラーはイギリスを敵にしたのに
「インドはイギリス領が相応しい」
と、訳の分からない差別主義思想を優先し、チャンドラ・ボースの懇願をうやむやに退けた。
次にボースは仕方なくマレー、ビルマに侵攻した日本を頼る。
日本も大戦初期の1942年4月はまだ絶好調でセイロン沖海戦でイギリスの東洋艦隊をインド洋から追い出しに成功。
スエズ運河まで、あと少しのところで、ナゼか自らインド洋から撤退し、山本五十六の、海軍の希望である太平洋方面へ侵略に向かってしまった。
せっかくリアリストの指導者、チャンドラ・ボースが暗躍したというのにヒトラーの計算して損でも白人の生理、人種差別主義に、切腹する国、日本人のマゾヒズムに、チャンドラ・ボースは翻弄されただけに終わった。
最後は日本に頼ったおかげで日本人的マゾヒズム、インパール作戦に付き合わされた(泣)。
チャンドラ・ボースは終戦直後に日本の陸軍の軍用機で台湾から次なる支援国、ソ連に渡り、独立運動を頼ろうとしたが、その時に軍用機が離陸直後に突然墜落する謎の事故で亡くなっている。
一応、ソ連側からはチャンドラ・ボースを受け入れる返書があったらしい。
しかし、日本にしてみれば自国が敗戦したのに、援助してやったインドの指導者が対日参戦してきたソ連に亡命とは、確証は無いが日本の軍部の暗殺が考えられるな。
日本のF機関から大規模な光機関に発展した特務機関はインド独立の大義名分でインド国民を陽動する暗躍をやっていたが、その連中なら、暗殺工作も平気でやる、得意分野だろうと。
チャンドラ・ボースみたいな現実主義的な指導者がいて、ヒトラーか日本のどちらかでも気が利いた国なら、第二次世界大戦の時にスマートにインドは独立出来たような。
結局、イスラム教とヒンズー教の対立を生み、キリストのような綺麗事だけのガンジーは暗殺され、清廉潔白な傑物いたね、で終わって、インドとパキスタンの戦争は続いた。
インド独立をもスマートに仕立て損ねた、インドとパキスタンの戦争も日本の海軍のせい、ということか。
そしてチャンドラ・ボースの事故死もまた、本国インドでは、実は生きていた。と、ミステリーになっているそうだ。
ちなみにチャンドラ・ボースはガンジーより本国のインド人には人気が高いそうで、やはり綺麗事より現実的に頑張った人の方が当事者には支持されるのだろうな。
分かります、それ(笑)。