日英同盟と富国強兵

地中海の真珠、マルタ島
マルタ騎士団とは11世紀からある聖ヨハネ騎士団が興りの、中世からの騎士団で主に戦争で負傷した兵士を匿い、治療する病院の役目だった。

ナポレオンがエジプト遠征の足掛かりに、まずマルタ島を6日間で攻略し1798年6月にフランス領とした。

しかし、エジプト遠征の失敗で1800年からマルタ島はイギリス領となった。

第二次世界大戦ではイタリアがまず地中海を制圧し、ナチス・ドイツUボートが多数、潜航する中、枢軸国と連合国イギリス領マルタ島の攻防戦が起こる。

同じ時期に日本はマレー作戦、マレー沖海戦ビルマ占領、セイロン沖海戦とイギリスに連勝している。

なぜ、この破竹の勢いの時に、地中海まで、援軍出さなかったんだか。

それに日本には地中海援軍のスキルもあった。

1917年の第一次世界大戦の時は日本はイギリスと協力してマルタ島を攻防したのだ。

特務艦隊という駆逐艦の艦隊を派遣した。
第一特務艦隊はインド洋を
第二特務艦隊は地中海をイギリスと協力して攻防した。
第一次世界大戦の時は逆だった。


日英同盟


により、日本はイギリスの要請を受け、そして戦勝国となった。


1902年1月30日に調印された日英同盟


日清戦争の日本の勝利にロシア、フランス、ドイツが干渉してきた(三国干渉)。
負けた清国もロシアに戦費、賠償金を借款したり負い目があり、ロシアの言いなりにならざるを得ず、日本もロシアの国力により三国干渉を飲むしかなかった。

そこにイギリスが目を付けた。

クリミア戦争からロシアの不凍港欲しさの南下に悩まされてきたイギリスは、ロシアが今度は極東方面に不凍港を得ようとするのを懸念した。ウラジオストクは既に獲られている。


次は朝鮮半島から日本がヤバい。
イギリスは素早く、日本と日英同盟を締結した。


ロシアの極東への南下政策は女帝エカチェリーナ二世の頃からあった。
日本は江戸時代、老中松平定信の時世。
エカチェリーナ二世の遣日使節でロシア領域に漂流した大黒屋光太夫を伴ったロシア人アダム・ラクスマンが1792年9月24日に北海道の根室に到着するのに始まる。
日本は島国の鎖国根性で、江戸幕府から蝦夷地の松前藩に完全に委任と、のん気だったらしい。
松前藩は、漂流民の帰国の他に通商を求めるラクスマンに陸路からこちらに謁見するよう要求したが、ラクスマンは陸路を嫌がり、松前藩
ならば長崎に行け
と適当にあしらった。
とりあえず、ラクスマンは長崎には寄らずロシアに帰国した。
しかし、1804年にラクスマン松前藩から受けた入港許可証で、今度はロシア人外交官レザノフが長崎に来航。
レザノフも通商を求めたが江戸幕府から、丁重に謁見をあしらわれ、半年、待たされた挙げ句、仕方なくロシアに帰国した。
1804年のロシアはアレクサンドル一世の時世で、皇帝になったナポレオンとの戦争に大忙しの最中だ。


エカチェリーナ二世から、次のパーヴェル一世、次のアレクサンドル一世の時代はフランス革命の勢いからナポレオン・ボナパルトが台頭し、ヨーロッパを席巻する怒号の時期だった。
ロシアもナポレオン戦争に巻き込まれ、極東への南下政策には構っていられなくなった。
ならばロシア遠征とか、江戸幕府にとって良い時間稼ぎだったのか。


鎖国中の江戸幕府は分かっていなかったろうが日本はこの時、危機一髪だったんだな。


ナポレオンはこの時の日本の神風か(笑)。


去年、神奈川県立歴史博物館の特別展「北からの開国」というのがあり、この辺りの勉強になったな。
展示物に、ラクスマン、レザノフ、大黒屋光太夫開明派の蘭学者渡辺華山、鷹見泉石、桂川甫周肖像画や文献などの関連資料があり、特に印象的だったのは

鳥居耀蔵の古文書の達筆ぷり。
祐筆かも知れないが、線の細い神経質な人柄が忍ばれる見事な達筆だった。祐筆だったとしてもそういう字ヅラを好むのが、いかにも、らしい(笑)。

鳥居耀蔵儒学者の四男でとにかく蘭学を嫌う、蛮社の獄をやった妖怪奉行で有名。
時代劇なら「遠山の金さん」のライバルの南町奉行だが、いわゆる幕藩体制


超・保守


線の細い神経質そうな見事な達筆だったのがイメージまんまで印象的だったわ。

韮山代官の江川英龍に宛てた書だったが、江川英龍とは鳥居耀蔵と正反対の人物で、既に韮山反射炉を造り、西洋式の産業技術の導入を積極的に行っていた開明派。

江川英龍韮山代官の図も沢山、展示してあった。

あと印象的だったのが


会沢正志斎の「新論」


鳥居耀蔵の線の細さとは違う、芯の強さを発揮した見事な達筆だった。

会沢正志斎は水戸藩の水戸学の思想家で「新論」で尊王攘夷のための富国強兵を唱えた。

この「新論」に西郷隆盛吉田松陰も感銘し、薩摩藩長州藩明治維新にも影響。
その後、日清戦争、明治外交の日英同盟を経て日露戦争日韓併合、と富国強兵パワーが炸裂する。


その中でも日露戦争の勝利にも効果的だった日英同盟は大きい。
イギリスの思惑通りロシアの南下は抑えられ、ロシアは疲弊した。
日本は韓国を併合し、ロシアの南下への防波堤を更に強化した。

日英同盟第一次世界大戦での勝利も生んだ。

しかし、この富国強兵パワーは第一次世界大戦戦勝国となった時、三国干渉の怨みもあったか

対華二十一か条の要求

という思い上がりも生んだ。
そして1921年11月11日からのワシントン軍縮会議の協議により、日英同盟が破棄される。

代わりにアメリカ、イギリス、フランス、日本の
四カ国条約

日本の日英同盟、富国強兵パワーに危惧したアメリカの巧みな罠だった。


こっから日本はヤバい国に堕ちていきます。


明治維新からの優秀な創業者の、出来の悪いボンボン育ちの二世みたいに、めちゃくちゃな第二次世界大戦をやらかすが
アメリカの危惧は、日本が日英同盟の結晶、日露戦争で勝った時から

オレンジ計画

で懸念されていた。

 

山本五十六は30代の頃にアメリ駐在武官として渡米、その際にハーバード大学にも留学している。
この時にアメリカのオレンジ計画からの対日意識も吸収したろう。
機械製造工場、石油タンクも見学して、輸入に頼るだけの日本では、こりゃ勝てる相手じゃない
とも思っただろう。
国費で山本五十六には身を持って体験させたんだが、その後の真珠湾奇襲攻撃から太平洋戦争、アメリカ攻撃の執念はナゼか凄まじい。


まったく参考文書は無いが、山本五十六アメリカで人種差別にでも合ったのか?
あとは山本五十六スパイ説。
アメリ駐在武官の時にアメリカの諜報員にスカウトされスパイになっていた。
その他、コミンテルンやらロスチャイルドやらフリーメーソンやら(笑)陰謀論が面白おかしくある。

それくらい、山本五十六真珠湾奇襲攻撃は不可思議なことなんだな。

アメリカの国力を目の当たりにして、一番やってはいけない方法で開戦し、ナゼか太平洋にアメリカにこだわった。


山本五十六は長岡藩の家老、山本帯刀の山本家の養子だという。
長岡藩と言えば武装中立河井継之助だが、徹底抗戦の会津藩や他の奥羽越列藩同盟とはまた違う嫌な負け方を新政府(尊王攘夷派)からしている奇異な藩だ。
山本帯刀は北越戦争で捕まり斬首された。一時、山本家は御家断絶だったが、その後、再興が許されたが男児がいない故に同じ長岡藩士の高野貞吉の六男、高野五十六が養子となった。

山本五十六には河井継之助武装中立なる奇策が故郷の血で細胞レベルで染み付いていたのか。

奇異な藩から輩出した山本五十六真珠湾奇襲攻撃。
なぜ、インド洋での破竹の勢いの時に、地中海まで援軍を出さなかった、なぜ、スエズ運河を抑えなかった。
この天の邪鬼から明治維新政府の血と汗の富国強兵が崩壊していく。

スエズ運河を抑えていれば

1942年4月5日~9日、セイロン沖海戦の南雲機動部隊の鮮やかな勝利でイギリス東洋艦隊はモルディブ諸島のアッドゥ環礁に退却。
更に植民地ケニアのキリンディニ港まで退却。
そして最終的には南半球のマダガスカル島迄、退却した。


マダガスカル島は南半球のアフリカ大陸の南東海岸部から沖へ約400キロメートル離れた西インド洋にある。
19世紀後半からフランスの植民地になっている。


南雲機動部隊に敗れ退却したイギリス東洋艦隊は次に、1942年5月5日から11月6日迄で行われたマダガスカルの戦いでナチス・ドイツの占領下のヴィシー政権と戦うことになる。


同じヨーロッパのドイツとイタリアは協力体制がスムーズでヴィシー政権で占領地になったマダガスカル島にイギリス東洋艦隊が向かう最中、隙をつくようにイギリス領マルタ島を攻略しようと空爆を行った。
しかし、1942年8月からのイギリスの補給作戦、ペデスタル作戦により失敗する。


マルタ島はイタリア南部のシチリア島から更に南、地中海のアフリカ大陸のリビアとの中間にある島だが、イギリスにとって地中海からスエズ運河に向かう為の要所で、やはりスエズ同様の最重要拠点で、絶対に手放せない。
ナチス・ドイツにはマルタ島攻略はスエズ運河占領を目指す北アフリカ戦線のロンメルの救援を意味した。


立地条件の良さもあるマルタ島は、地中海の真珠、と呼ばれている。


1798年6月にナポレオンもエジプト遠征の時にまずはマルタ島を占領した。
イギリスの植民地インドへの交易を断つ目的のエジプト遠征に、足掛かりには、やはり地中海のマルタ島の占領が不可欠だった。
ナポレオンが凄いのはマルタ島にはマルタ騎士団という武装集団がいたが、たった一週間で駆逐しフランス式の行政を敷いて、マルタ島を去りエジプトに侵攻した。

そしてエジプトを一時、占領した時にスエズ運河建設が可能か学術調査団に調査させている。
しかし、この時はまだ測量技術が未熟で地中海と紅海の海面の差が10mもあると運河建造は不可能だと判断した。
本場イギリスでも考えなかった運河建設案を考慮した29歳のナポレオン。得意の神速技が乗りに乗った時期かな。

結局、イギリス海軍のネルソンとのアブキールの海戦に負けナポレオンのエジプト遠征は失敗に終わった。


ナポレオンが失敗したエジプト遠征、インド洋作戦にのみ集中してれば日本が成功した可能性があった。


しかし、現実はセイロン沖海戦で勝利したにも関わらず、日本海軍はMO作戦で太平洋方面に向かった。
よって日独伊の同盟が発揮される絶好の機会、マダガスカルの戦いには、日本は遠いのもあり、海上輸送の危険性で深海からひっそりとオマケ程度に潜水艦5隻、伊10、伊16、伊18、伊20、伊30を派遣した。

そしてマダガスカル島のディエゴスアレス軍港に真珠湾奇襲攻撃の時にも若者をほぼ特攻させた

特殊潜航艇

という潜水艇

甲標的

に艇長、秋枝三郎ら20代の若者が乗船し、搭載した魚雷でイギリスの戦艦ラミリーズを大破、石油タンカーのブリティッシュ・ロイヤルティを撃沈。

しかし、特殊潜航艇の乗組員は20代の若さで戦死した。


そしてマダガスカルの戦いはヴィシー政権とは言え、フランスのド・ゴール将軍のいる連合国に寝返る者が多く、連合国の勝利に終わった。
なんでも給与支払いがヴィシー政権からで、金の為、仕方なくで、結局はド・ゴール将軍の自由フランス寄りばかりだった。


まあ、この後、スエズ運河同様、このマダガスカル島を連合国に獲られた影響が大きくなる。


スエズ運河はフランスの外交官フェルディナン・ド・レセップスが計画した。
ちなみにレセップスはナポレオンの甥ナポレオン三世の妻の親族で、ナポレオンのエジプト遠征の時の計画を温めていたのか?
レセップスの計画通り、フランスのスエズ運河会社が1859年4月25日に着工し10年かけて1869年11月17日に完成させた。
しかし、後、経営難からイギリスが1875年にスエズ運河会社の株式を買収。スエズ運河はイギリスの管理下に置かれた。

イギリスのスエズ運河支配への執着は第一次世界大戦から第二次世界大戦後まで続き冷戦構造から、未だに続く中東戦争のきっかけとなった。
イギリスとエジプトが争う第二次中東戦争の時、アメリカとソ連が干渉しイギリスはようやくスエズ運河から手を引いた。

やはり最重要拠点は凄まじいな。

ヒトラーはナポレオンに憧れたかロシア遠征の成功版とばかりに意気込み、無謀な独ソ戦を始めたが、日本もインド洋制覇を
石原莞爾ナポレオン戦争を「世界最終戦論」で書いたが、誰かナポレオンに憧れてくれて


俺がナポレオンの如くインド洋からエジプトを制圧してスエズ運河を占領する!


と、なってくれるの居なかったのかな。

イギリスがいつまでも手放さない絶対的な最重要拠点なんだぞ。

 

日本とナチス・ドイツの協力体制は遣独潜水艦作戦という潜水艦での連絡交換で行われた。
やはり海上輸送の危険性から潜水艦での渡航となった。
1942年から5回行うが2回目だけが当時ナチス・ドイツ占領下のフランス、ブレスト軍港に無事に到着し帰還出来た。

最初、伊30
行きは成功、1942年8月6日にフランスのロリアン軍港に入港するも帰り10月13日にシンガポール港にて、なんと自軍の機雷に触れ沈没する(泣)。

2回目、伊8
ヒトラーが日本に無償譲渡するUボート「U1224号」をドイツから日本に回航する要員60名を乗せ、1943年8月31日、無事フランス、ブレスト軍港に到着。
帰国も成功。
駐独大使館付海軍武官の横井忠雄海軍少将が便乗帰国した。

3回目、伊34
1943年11月13日、向かう途中、マラッカ海峡にてイギリス海軍の潜水艦に撃沈される。

4回目、伊29
駐独大使館付海軍武官小島秀雄海軍少将、永盛義夫海軍技術少佐、田丸直吉技術少佐、鮫島龍雄海軍大学校ドイツ語教授ら総勢17名の便乗者を乗せシンガポールから1944年3月11日にフランス、ロリアン軍港に到着。
帰りは、小野田捨次郎海軍大佐、松井登兵海軍大佐、巌谷英一海軍技術中佐ら総勢18名を便乗させ、4月16日にロリアンを出航。
7月14日にはシンガポールに入港するも、7月26日にバシー海峡にてアメリカ海軍の潜水艦に撃沈される。

同艦には、Me163型ロケット戦闘機及びMe262型ジェット戦闘機に関する資料が積まれていたが、シンガポールで零式輸送機に乗り換えた巌谷英一海軍技術中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われた。

5回目、伊52
1944年6月24日、向かう途中、大西洋にて米護衛空母ボーグの艦載機の攻撃により沈没。

 

1回しか成功しなかった。
しかも重要なのは4回目のナチス・ドイツの技術資料だったが、撃沈され喪失した。

 

やはり、スエズ運河を、マダガスカル島を抑えていれば素早く安全にナチス占領下のフランスの軍港に到着出来た。


日本は遣独潜水艦作戦を占領下シンガポールマラッカ海峡からインド洋を渡り南半球のマダカスカル島のあたりから南アフリカ喜望峰沖を回り大西洋のドイツ占領下のフランスの軍港にようやく到着、と、連合国の危険にさらされながら、南アフリカを回る片道およそ3ヶ月を要したのだ。

 

スエズ運河を抑えなかった故に。

 

ニューギニアの山越え同様、無駄に過酷な事をさせて終わり。

 

日本は伊400という巨大潜水艦でパナマ運河の攻撃、占領を企んだが、戦争後半には太平洋の制海権を連合国に獲られパナマ運河まで向かうことが出来ずミクロネシアのウルシー環礁あたりで立ち往生してるうちに終戦した。

山本五十六真珠湾から太平洋方面の占領も最終的にはパナマ運河を目的としていたとか。
戦争初期から潜水艦でパナマ運河攻略を目指す作戦はあったが、ミッドウェー海戦の敗北で実行出来なくなった。

パナマ運河の方はアメリカの最重要拠点だから、生半可なことでは占領出来ないだろうに。

日独伊三国同盟な以上、スエズ運河を優先すべきだったが、どのみち無謀な計画を実行する博打なら

ナポレオンの如く
だったな。

架空戦記、西亜作戦

イタリアはリビアを植民地としアビシニア(今のエチオピア)を1936年に占領、次はその間のイギリス領エジプトと同じくイギリス領スーダンを占領しようとした。
しかし、エジプトにはイギリスにとって最重要拠点、スエズ運河がある。

イギリス軍は絶対堅守で防衛し、逆にイタリア領リビアを占領しイタリアを降伏させた。
そこでイタリアの同盟国のドイツは1941年2月にドイツアフリカ軍団の最高指揮官にエルヴィン・ロンメルを任命しリビアトリポリに派遣した。

 

日独伊三国同盟は1940年9月27日だから、既にイタリア、ドイツ、日本は同盟関係だが、アビシニア(今のエチオピア)がイタリア領なら、インド洋作戦でスエズ運河占領、可能性あったな。

1941年11月15日、開戦3週間前の大本営政府連絡会議で西亜作戦が腹案されていた。

西亜作戦

ロンメル北アフリカ戦線とインド洋からの日本がイギリスを挟撃する作戦だが、調べると、たられば、なんで、成功しただろう、やはり無駄、と賛否両論、色んな意見がある。
しかし、日独伊三国同盟を上手く活用した、なかなか良い計画のような気がする。


たられば


そう、現実は日本は真っ先に真珠湾に奇襲攻撃仕掛け、アメリカ参戦させ開戦と同時に終了(したも同じ)。


開戦と同時に終了してんだから、西亜作戦だけだったら、と、考えても色んな可能性が考えられるし、もはや仮想戦記だな。


山本五十六を少し調べると真珠湾への攻撃の構想が前々からあったらしく、映画「アルキメデスの大戦」でも館ひろし演じる山本五十六

「空母を作って航空機でハワイ、真珠湾を叩く。」

とか、言って國村隼演じる永野修身が唖然とする場面があったが。この映画は1933年の設定らしい。
現実も戦艦大和建造計画のマル3計画は1937年からだから、山本五十六真珠湾への攻撃を数年は温めていたのか。


真珠湾攻撃は絶対的な日本の運命か(泣)


日本は真珠湾攻撃と同時に南方作戦でイギリス領マレー、ビルマ、香港にも進軍し占領している。後々、ビルマからインドにも。

香港、ビルマ日中戦争からの継続、援蒋ルート遮断。
インドは独立運動と呼応。
と、合理的だからイギリス領の方向の作戦は建設的で良いと思える。

しかも、ハワイと違い、建設的な島もあった。


セイロン島


チャーチル首相が
「今、日本がセイロン島と東部インドからさらに西部インドへ前進してくれば対抗できない。
蒋介石支援ルート、ペルシャ湾経由の石油輸送ルートやソ連支援ルートが遮断される。」
アメリカに牽制行動をとるよう切望したそうな。
独ソ戦ソ連への支援もインド洋経由でやってたのだからイギリスの疲弊度はかなりのものだったんだな。


チャーチル首相は「第二次大戦回顧録」というのを書いてくれてるから、心境が分かり、ありがたい。
セイロン島は今のスリランカでインドの南東に寄り添うようにある島だが、イギリスの軍事拠点があるシンガポールのような要所だった。

やっぱり焦ったんだな、イギリスは。

1942年4月5日~9日のセイロン島を巡るセイロン沖海戦南雲忠一の南雲機動部隊の空母、赤城、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴がセイロン島の軍事拠点、コロンボ基地とトリンコマリー軍港を空襲し、イギリスの空母ハーミーズ重巡洋艦コーンウォール重巡洋艦ドーセットシャー、駆逐艦ヴァンパイアを撃沈している。
小沢治三郎の馬来部隊はベンガル湾で商船20隻以上を撃沈と通商破壊も成功している。
そしてイギリス東洋艦隊はインド洋から去りアフリカ大陸の南半球、マダガスカル島まで退却。


山本五十六の空母構想はセイロン沖海戦では成功したと言える。


しかし、勝った日本もインド洋から撤退した。
元々、海軍は陸軍の補助役のインド洋より真珠湾奇襲攻撃の成功から海軍独自の太平洋に侵攻したがっていた。
セイロン沖海戦の勝利の10日後、1942年4月18日のドーリットル空襲を理由に太平洋に向かった(MI作戦、MO作戦)。
山本五十六真珠湾、太平洋への思いを優先するように。

 

太平洋の範囲の広げ過ぎからくる悪循環を考えたら、インド洋重視の方が成功の可能性、連合国の反撃もマシだったような。
真珠湾はやってしまってもスエズ運河占領の強味で連合国に対して停戦調停もやりやすかったと思うんだが。

 

まあ、たられば、だ。

 

それにドイツはヒトラー独ソ戦に命を燃やしてしまっている。
打倒共産主義、人種差別を美学とする頭イカれたちょびヒゲが、その後、何したか分からん。
なんせ、同盟組んだ日本を有色人種のくせにイギリスを制圧した(マレー作戦)と嘆いたとか。
マレー沖海戦も日本が勝ったら
インド洋は白人であるイギリスが支配すべき、と言ったとか。

当たり前過ぎるが


イギリスは敵で、日本は同盟国。


一国の総統の器じゃない、人種差別で頭イカれたちょびヒゲのおっさんだ。
要はヒトラーは生理的に白人優位じゃないとダメなんだろ。

ヒトラーは軍人というより画家を目指しただけあり美学でモノを考える芸術家気質なんだな。
第一次世界大戦の経験が、ベルサイユ条約の過酷さと屈辱が、ヒトラーの芸術家気質を人種差別、共産主義憎悪、ユダヤ人迫害という方向で炸裂させたんなら

芸術は爆発だ

と、奴なら、日本が挟撃で勝たせても後々、原爆乱用したろうな。マッカーサーみたいなウェストポイント首席でも我慢出来なくなったんだから。


真珠湾病の山本五十六も差別思想のヒトラーも偏執狂という熱病に侵され国力以上の誇大妄想に取り憑かれた。
太平洋もソ連の侵攻も補給はもちろん、その土地の持つ環境の恐さを考えない範囲広げ過ぎなの一緒だ。


インド洋作戦の中断により、後、マニラでマンゴーの木で絞首刑にされた山下奉文とエル・アラメインの戦いで敗戦し、後、ヒトラー暗殺計画の嫌疑で自殺させられたロンメルは痛ましい。

日本の大敗北 真珠湾奇襲攻撃

真珠湾奇襲攻撃より2時間ばかり早く行われた南方作戦、イギリス領マレー方面のE作戦は1942年2月15日にイギリス領マレーのシンガポールを占領した。
当初の予定の3ヶ月より1ヶ月弱早い70日で達成した快進撃だった。
イギリスはナチス・ドイツ相手の欧州戦争、北アフリカ戦線で精一杯だったし、大英帝国の広げ過ぎた植民地経営の維持も大変になってきていた弱味があった。


フランスはナチス・ドイツが占領したからヴィシー政権になり味方、イギリスは対ナチス・ドイツで疲弊している。ならば東南アジアはチャンスだ。
連合国側からしたら、やはり仏印進駐だけでは済まなかった、疲弊しているイギリス領に侵略しやがった。
と予想通りの日本の侵略にキレた瞬間だったろう。


南部仏印進駐は対日禁油を招いたが、マレー作戦の時の護衛の航空機を飛ばしたツドウム飛行場の使用や日中戦争の援蒋ルート遮断、ナチスと同盟を組んだ日独伊三国同盟の効力も活かした実用的なものでもあった。


日独伊三国同盟はよく、最悪の選択だと悪く言われるが、フランスは傀儡にし、イギリスも疲弊させてくれているし、単純に北アフリカ戦線のロンメルスエズ運河占領に向けて挟撃すれば対日禁油の解決もアラビアの石油確保で出来たし、イギリスの動きを封鎖出来て日本は戦勝国の可能性があった。

日独伊三国同盟が悪いのではない。

悪いのはナチス・ドイツ独ソ戦、日本はアメリカ相手に太平洋戦争、と同盟関係を優先せずに各々が勝手な方向に向かったから。
ヒトラー独ソ戦を選んだ以上は、日本がアメリカを刺激する真珠湾、フィリピン、太平洋方面の侵略を控えて東南アジアのイギリス領のみに集中すれば良かったんでは?と思う。


山本五十六は海軍の条約派、米内光正、井上成美らと日独伊三国同盟に反対した、対米協調派だと言われているが
ならば

「半年なら暴れてみせましょう。」

言った通りに半年で済む戦争をしてほしかった。
いや、アンタは動かなければ良かっただけなのだ。
真珠湾アメリカ相手に奇襲で攻撃仕掛けたから半年じゃ済まなくなった。
真珠湾で空母、ドッグ、石油タンクも壊滅してたら、まだ分からなかったが、古い戦艦を壊しただけで終わり

映画「トラ・トラ・トラ!」で、山村聰演じる山本五十六


「我々は眠れる獅子を起こしてしまった。」


言った事と反対に、半年で済ませられたのを、わざわざ長引かせました(泣)。


だいたい海軍が好調だったインド洋作戦を中止し、MO作戦をやりたがり太平洋に向かったのだから、日独伊三国同盟に反対してもMO作戦で、それ以上に悪効果だった。


真珠湾奇襲攻撃は原爆投下の言い訳に今でもなっている。
本当は宣戦布告を攻撃の30分前にしてカッコ良く決めようとしたが外務省のタイピストが通知を遅らせて、騙し打ちになってしまい

sneak attack(騙し打ち)

Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)


今でもトランプ大統領が言うたな。

日本は敗戦国だから、海外では日本人が思うような考え方ではない。
それだけ真珠湾奇襲攻撃は重い。


ちなみに原爆投下の真の意味は共産主義ソ連に対する牽制と、冷戦の対応策だが、だから広島、長崎と西日本に西に西にとウラジオストクに近付く方向だったのかな?
朝鮮戦争の時、マッカーサー満州に、援軍に涌き出る中国人民義勇軍、要は共産主義に対して原爆を投下したがった。

トルーマン大統領が共産主義の親玉ソ連の本格的な参戦を怖がり、止めさせたが、核の抑止力の最初の現象だよな。

要は国力が無ければ牽制球の役割で原爆を投下されるが
国力が互角なら抑止力になった

国力

国力の差を考えて戦争計画を建てなければ、侵略しても反撃の時に好き放題にされる。
好き放題とは、弱った日本に原爆投下しても意味ないのだが共産主義への牽制球に利用されたのだ。

 


日本の国力での第二次世界大戦の参戦は日中戦争の継続で援蒋ルート遮断という名目で東南アジアのイギリス領だけ、だと思う。
大義名分もある。
黄色人種の日本がイギリスを制圧した人種解放、果ては大英帝国からの植民地解放につながった。
第二次世界大戦後、欧米の植民地は殆どが独立した。

 

1943年11月5、6日の2日間、大東亜会議が東京で開催された。
タイ、ビルマ、インド、フィリピン、中国、満州国の六首脳が参加。


同じ時期、1943年11月22~26日に連合国の方はカイロ会談を開催。
ルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石が会談した。
カイロ会談のカイロ宣言で日本は侵略国として散々に言われ、中国から奪った領土、第一次大戦で領有した太平洋の島、朝鮮を日本から独立させよ、とした。

 

チャーチル蒋介石も日本が真珠湾を攻撃した報を聞いた時、腹の底から高笑いして喜んだんだよな。
日本は日本で真珠湾奇襲攻撃に勝った勝ったと、単純に楽勝だと過信して、この瞬間に泣いた国はない。


ルーズヴェルトチャーチルのセットは第二次世界大戦の全ての会談(ポツダムは除く)で一緒だが、チャーチル首相にとってアメリカのルーズヴェルト大統領は命の恩人みたいなもんだ。

日本が真珠湾を奇襲攻撃したおかげで、ルーズヴェルト大統領の選挙公約、他国の干渉、世界大戦には参加しないという、モンロー主義孤立主義をくつがえせる大義名分が出来た。

やはり、真珠湾奇襲攻撃は日本の大敗北なのだ。

珊瑚海海戦~Battle of the Coral Sea~

珊瑚海、Coral Sea(コーラル シー)

名前からも珊瑚礁が透き通る綺麗な海なんだろなあ。

パプアニューギニア東方のソロモン諸島周辺の熱帯性気候の海域で珊瑚海には500種類以上のサンゴが生息している。

パプアニューギニアビスマルク海、ビスマルク山脈とプロイセンの宰相オットー・フォン・ビスマルクから名前をとった元々はドイツ帝国太平洋保護領と呼ばれたドイツ帝国の植民地だった。
ドイツ帝国第一次世界大戦で負けてパプアニューギニアを含む周辺のドイツ領の赤道以南はオーストラリアの委任統治領になり、赤道以北の南洋諸島サイパン島テニアン島マーシャル諸島などは日本の委任統治領になった。


第一次世界大戦は日本は戦勝国だった。


しかも、第一次世界大戦は欧州大戦と呼ばれたヨーロッパ大陸の戦争だからヨーロッパが疲弊し、日本は欧州に少し援軍送った程度で戦勝国になった。
更に疲弊した欧州の代わりに日本の軍需産業に需要が行き、日本に成金が沢山、誕生した。
日本にとっては大変、美味しい思いの第一次世界大戦だった。


第二次世界大戦の敗戦国の日本とドイツの違いはドイツは第一次世界大戦の敗北によるベルサイユ条約の過酷さによる過激なナショナリズム=ナチズムの誕生だが、日本の場合、楽して勝ったことが神がかり的にカミカゼが吹く神国というオカルト的な過信のような気がする。


第二次世界大戦、日本の最初の真珠湾奇襲攻撃は
「奇襲」ですから、そりゃ勝ちますわ。
宣戦布告受けて無いアメリカは事前準備無し、フツーに日常的な体勢ですから。
なのに日本は、第一次世界大戦の思い上がりが継続していたのか、単純に勝ったと浮かれたみたいですな。


珊瑚海で1942年5月8日の早朝、世界最初の空母同士の戦いが行われた。
航空機同士の、互いの艦船が見えない戦いだった。


日本はアメリカの正規空母レキシントンを撃沈、ヨークタウンを中破。
いや、大本営はヨークタウンも撃沈と、嘘の発表をし、後のミッドウェー海戦で大変な痛い目に合う。
まだ、序盤の絶好調の時期に既に嘘の過大報告。
この悪癖もカミカゼが吹く神国という神がかり的なオカルトなんでしょうか…。


アメリカは日本の軽空母祥鳳を撃沈した。
日本にとって最初の喪失空母だった。


戦い自体は一応、引き分けと言われている。
アメリカは正規空母喪失、日本は軽空母だから日本のがマシ?
いや、レキシントンは撃沈したが、ヨークタウンは撃沈ではない。この大本営の嘘の発表が大変な間違いの元になった。
ヨークタウンの状態が次のミッドウェー海戦に大きく関わってくる。
ヨークタウンも本当に撃沈してればミッドウェー海戦の飛龍だけはなんとか守れ、名将山口多聞も生きて後の海戦を、少しはマシな采配に導いたことを思うと


引き分け


なんて、ものじゃない。


日本の敗北の元凶になったのだ。


日本の国力はアメリカの10数分の1なのは既に分かっていたのだから、最初にバッチリ決めて早期講話しないと、後の戦争が続けば続く程

負け

になるのは分かりますよね。


しかし


真珠湾奇襲攻撃(1941年、昭和16年12月8日) 勝ち
マレー沖海戦(12月10日) 勝ち
ウェーク島攻略戦(12月11日) 勝ち
ジャワ沖海戦(1942年、昭和17年2月4日) 勝ち
バリ島沖海戦(2月19日) 勝ち
スラバヤ沖海戦(2月27日) 勝ち
バタビア沖海戦(3月1日) 勝ち
セイロン島沖海戦(4月5日~9日) 勝ち
珊瑚海海戦(5月4日~8日)-引き分け


ミッドウェー海戦(6月4日~7日) 大敗


ミッドウェー海戦迄の連戦連勝一引き分けを日本は楽勝楽勝と思い上がって気が緩んでたようでミッドウェー海戦の時は一般人でも風の噂で

「次はミッドウェーに攻めるんですってね。」

と、知っていたとか。
アメリカのAFの暗号解読以前の問題だな。

 


太平洋戦争を調べていると、日本の勝ち、引き分け、とか言っても、全て最後のトドメが押せてない。(インド洋は除く)
悲しいかな撤退作戦(キスカガダルカナル、フィリピンからの北号作戦)だけは上手く成功させている。

撤退だけが上手くいってもそれは勝敗には関係ないでしょ(泣)。

 

トドメが刺せないのは国力が無いから。早く終戦工作しなければならない合図。

 

日本がミッドウェー海戦で大敗し、敗北の決定打を受ける前の最後の海戦、珊瑚海海戦はMO機動部隊の第四艦隊、井上成美の配下の原忠一司令官の第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)で戦った。


第四艦隊に第五航空戦隊


第一航空艦隊、第二航空戦隊の主力空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻ではない。


第五だけあり、第五航空戦隊は錬度不足の、まだ若輩者のパイロットばかりだった。


おかげで空母レキシントンは撃沈出来たが、若輩者のパイロットには空母と巡洋艦の区別が付かず、巡洋艦を空母と勘違いして攻撃したり無駄な動きが多かった。
よって空母ヨークタウンを中途半端に残すことにつながり、中破を大破と勘違いし報告、大破なら撃沈で良いだろ、とオカルト大本営発表のぬか喜びにつながった。
そして未熟なパイロット達は世界初の航空機同士の戦闘に戸惑い、航空機やパイロットの損失も甚大になった。
よってポートモレスビーに上陸する部隊の護衛を失い、ポートモレスビー占領には至らなかった。
日本人の人命軽視は絶好調だった初期から、そうだったようだ。この人命軽視もオカルト的だ。

 

主力の第一航空艦隊こと南雲機動部隊の赤城、蒼龍、飛龍(加賀は座礁し修理中)は1942年4月のインド洋でのセイロン沖海戦に勝利し、珊瑚海は第五航空戦隊だけでなんとかなるだろ、と参加しなかった。

ちなみにセイロン沖海戦はイギリス空母ハーミーズを撃沈し、イギリス東洋艦隊を南アフリカに追いやることに成功。
ならばインド洋、空いたんだから、エジプトのスエズ運河を抑えて、とっとと停戦調停しろや。


ナゼか以後、日本海軍はインド洋では海戦をしていない。


日本は第二段作戦として米豪遮断作戦、MO作戦を選択したから。


インド洋→スエズ運河で終わる気は無く、真珠湾奇襲攻撃の余波、太平洋を主力でやる気満々だったのだ。
この強気も神がかり的なオカルトですかね(泣)。


だいたい初っぱなの真珠湾奇襲攻撃自体が、第三次攻撃を諦めた中途半端なものだから、ずるずるしたのだ。
しかも肝心のアメリカの空母はその時、居ないし(泣)(笑)。


次の珊瑚海海戦も南雲機動部隊も参加して万全だったら完全勝利だった?


珊瑚海海戦が万全の戦力だったらベテランパイロットでヨークタウンを逃がさず撃沈して祥鳳も無事で護衛が充分なら目的のポートモレスビーを占領出来たかも?
ヨークタウンはハワイで突貫工事をして即、生き返ったのだ。
撃沈してればミッドウェー海戦の惨敗も少しはマシだったかも知れない。
いや、真珠湾奇襲攻撃の時、ドッグも破壊していればヨークタウンの突貫工事は出来なかった。


だから、真珠湾奇襲攻撃の時、既に負けていたのだ。
この時に実は負けていることに気付いていれば、これ以上、太平洋に向かう無謀は避けていたはずだが、神がかり的なオカルト連中はそうは思わない。


真珠湾奇襲の中途半端(実は負け)が、珊瑚海海戦の中途半端(実は負け)が、後々の命取りにつながる。
国力が劣るなら、完全勝利の内に早期講話しなければならない。
国力が劣る側の攻撃が中途半端だった場合、国力がはるか上の敵の切り返しがあるのだから、敗戦なのだ。
しかし、神がかり的なオカルトは、それが分からず中途半端を勝利と過信し現実の国力以上に強いと信じた。


中途半端からガダルカナル島にわざわざ飛行場を造る労力、間抜けにアメリカに瞬殺で奪われて奪回する兵力の消耗、更にはポートモレスビーに拘る必要性にかられニューギニアマラリアや飢えに苦しみながら4100mの山越えを何度もさせ、補給の無いまま進軍させ、建設不可能な湿地帯に道路を建設させたり

 

地獄を絵に描いたような惨状につながった。

 

奇襲で勝ったと勘違いして単純に浮かれ、序盤の連勝に余裕ぶっこいて、スター艦隊を出し惜しんだが、アダ。


スター艦隊の空母赤城、加賀、蒼龍、そして飛龍は珊瑚海海戦の一ケ月後に全滅し、日本の敗戦は決定的となるのに。


神がかり的なオカルトになった日本は合理的なものの考え方が出来なくなったようだ。
オカルトゆえに人命軽視も甚だしい化け物のように無謀な破滅的な作戦を連発し
そして、第一次世界大戦で楽勝した以上のツケを払うことになった。

何の為の戦いなのか?ニューギニアの第18軍

カートホイール作戦は飛び石作戦でドミノ式で東部ニューギニアまで反撃していった。
反撃のドミノは最終的にはマッカーサーの念願
「I shall return」
でフィリピンに上陸することになる。

 

日本軍のニューギニア侵攻は1942年1月にニューブリテン島のラバウルを占領。同年3月にサラモア、ラエに上陸で始まり、更にラバウル基地の防御の為、ニューギニアの首都ポートモレスビーの攻略作戦から始まる。
アメリカのハワイ基地とオーストラリアを遮断するMO作戦(ポートモレスビー作戦)の一環だ。

MO作戦のポートモレスビーの攻略はまず1942年5月の珊瑚海海戦で引き分け、海路でポートモレスビーを占領することが出来なくなり一時中止された。
よって陸軍の南海支隊に陸路でポートモレスビーを攻略する「リ号研究」を作成するよう命じた。
リ号研究は南海支隊が上陸したブナからパプアニューギニアの首都ポートモレスビーにまたがるオーエン・スタンレー山脈、標高4100メートル(サラワケット山と同じ位)を越えればなんとかポートモレスビーに到着出来るか?という内容だった。
そして発表する段階まできた。
ところが、そのリ号研究を参謀本部の作戦課の辻政信が独断で即、実行に変更したのだ。

「リ号はもはや研究にあらず、作戦として実行せよ。」

辻政信は独断専行で南海支隊の隊長、堀井富太郎少将に実行を命じた。
なんとサラワケット越えの前に山越え作戦(未遂に終わったが)があったのだ。

南海支隊はオーエン・スタンレー山脈の山頂を越えて下り坂のイオリバイワまで到達したところで連合国の航空部隊の圧倒的な戦力、オーストラリア軍の落下傘部隊に攻撃され退却。
あと2日でポートモレスビーに到着予定だった。
退却途中のココダで戦闘になり南海支隊は半数の3400人まで数を減らした。

戦闘よりマラリアによる死亡が殆どだったという。
堀井少将もジャングルの中の河川をカヌーで移動中、転覆事故死した。
湿地帯のジャングルがどれだけ危険かも、よく考えてなかったろうな(泣)。

 

1943年4月18日、山本五十六ラバウル基地から一式陸攻ブーゲンビル島に視察に向かう途中、日本の設営隊が苦労して建設したヘンダーソン飛行場から出撃したアメリカの戦闘機P-38 ライトニングに撃墜され戦死。
MO作戦の言い出しっぺ山本五十六自身が死んでしまった。
この後、侵略だけで補給の事まで考えてない、思い付きのように無謀なMO作戦だけが残された。
MO作戦という広大な太平洋を網羅し海軍力が存分に発揮できる、無謀(夢)な作戦に付き合わされた陸軍兵士にとっては

何の為の戦いなのか、まったく訳の分からないものだったろう。
大義名分も何も。

大義名分、そう、1943年9月30日の御前会議で設定された「絶対国防圏」から東部ニューギニアは外れた。
更に東のラバウル航空基地のあるニューブリテン島も、もちろん外れた。

海軍の夢の残骸、ニューギニアは取り残された形となった。

ニューギニア島は日本の二倍の土地を持つ世界2番目に大きな島。
西半分はオランダ領インドネシア、東半分はオーストラリアの委任統治領のパプアニューギニア
殆どが湿地帯でマラリア蚊が大量に発生している。

連合国は既にマラリア蚊の研究をし、マラリアの治療薬を開発していた。
日本は19世紀からあるマラリアの特効薬キニーネを持ち歩かせた程度。

連合国は食糧も「レーション」という栄養バランスばっちりの携帯用野戦食を航空機で空から投下という、兵士に重い荷物を持たせない極めて合理的なやり方で補給した。

日本は兵士自らが米と飯盒を背負って歩きました(泣)。

もはや文明人と原始宗教(バンザイ)の差がある(泣)。

ちなみに野戦食=レーションの興りはナポレオンなのだ。戦争に持ち歩ける保存食、瓶詰(後に缶詰に発展)を開発させた。
18世紀後半には既にある発想なんだが、日本はまったく学んでない。


MO作戦に補給はもちろん、ニューギニア島が湿地帯でマラリア蚊の影響で兵士がマラリアになる配慮はあったのか?
ただ、いたずらに兵士を逐次投入するしかない無謀な作戦でしかなかったろう、結果そうだ。

「戦力の逐次投入」
カール・フォン・クラウゼヴィッツが「戦争論」で、最も愚策と書いた事だ。
小出しに出兵し、戦果が得られないまま、現有戦力がダウンしていく事は、愚策の極みとしている。


日本軍がまさに、それやったな(泣)。


南海支隊の次に日本は第20師団をマダンに、第41師団をウェワクに、第51師団をラエ、サラモアに送った。

そして第51師団は南海支隊に続き退却の山越えを体験する(サラワケット越え)。


クラウゼヴィッツいわく
「小出しに出兵し、戦果が得られないまま、現有戦力がダウンしていく事は、愚策の極みである。」


まんま(泣)。


南海支隊、第20師団、第41師団、第51師団は安達二十三中将の第18軍所属だが、安達二十三のニューギニア戦線とは絶対国防圏から外れ、大義名分すら無い、海軍の夢の残骸の後始末だった。

 

国を守る為の戦いではないと設定されたのならば、何の為の戦いなのか。

 

サラワケット越えを終えた第51師団には更なる試練、到着したキアリにオーストラリア軍が上陸し、再び山越え(泣)フィニステル山系の中腹を、やはりマラリア、スコールの増水による溺死の多数の犠牲者を出しながら1ヶ月かけて横断し西のマダンへ撤退した(ガリ転進)。

更に1944年4月、マダンから更に西のウェワクへに転進。

しかし片桐茂中将の第20師団は大発でウェワクに移動する方法を選び、案の定、途中、敵魚雷艇に襲われ壊滅した。
更に悪いことに連合国が第20師団の残骸から暗号書、乱数表を鹵獲。
ニューギニア方面の日本陸軍の暗号通信が連合国に盗まれた。
そのため、日本が次に更に西のアイタペを攻撃する計画がバレ、連合国に事前準備をさせてしまった。
このアイタペ戦における暗号復号は、ウルトラ情報による事前警告の最大の成功例と言われてる、そうな。


(泣)


何も知らない日本はアイタペ戦に対し、第18軍の上の東部ニューギニア担当の第8方面軍、今村均とオランダ領東インドインドネシア)東部担当の第2方面軍、阿南惟幾で意見が割れた。

今村均は「とりあえず持久戦」←正解

阿南惟幾は「アイタペを攻めよ」←暗号バレたから間違い

第18軍は西のアイタペへの移動により阿南惟幾の第2方面軍下に変更された後、ややこしいのか、更に寺内寿一の南方軍直属に変更された。

せっかく南方軍直属になったのに安達二十三は阿南惟幾のアイタペ攻戦を選んだ(泣)。


アイタペの戦いはまさに、何の為の戦いなのか分からない、口減らしなんじゃないか?と味方同士が思うような惨状だった。


もはや、兵士はボロボロの戦闘服に、食糧が無く栄養失調のガリガリに痩せた体で体力も無く、武器弾薬すら持ち歩く事が出来ず捨てていき、補給物資はゼロ。武器弾薬、食糧無しでの白兵戦だったのだ。


途中、安達中将は作戦方針を今村均の言う持久戦に転換した。


暗号を解読し待ち伏せしていた準備万端の連合国軍にボロボロの日本兵が太刀打ち出来るものではなく、13000人もの兵士が死んだ。
しかも殆どが戦死ではなくマラリア赤痢、餓死、戦闘する前にくたばった。
またはふらふらと幽鬼のように突撃してそのまま倒れたのか。

数が減った為、残った兵士に食糧が回るようになり持久戦が可能になったのだ。

アイタペの戦いは「口減らしの作戦」だと第18軍の間で噂になった。

なんと終戦1945年8月まで、何の為の戦いなのか分からない、戦いは続き、終わった。

 

山本五十六の置き土産、ニューギニア

 

最近、言われてるIFで

海軍はインド洋でイギリス相手に戦ったら日本は勝てていた


インド洋から西に西に
北アフリカ戦線のドイツのロンメル将軍と挟撃していきスエズ運河を抑えて停戦調停に持ち込む。



まだ、マシだったんじゃ、という気にはなるな。あまりに太平洋が広大で補給が無謀で悲惨過ぎて。

しかも山本五十六の作戦は初っぱなの真珠湾も奇襲だから、いちゃもんまで付けられ放題で原爆投下の言い訳にもされた。
だから、真珠湾奇襲も勝ち戦ではない。


太平洋の戦いは最悪の選択の連続だ。
日本人は優秀だが、日本の作戦参謀が最悪だった。
優秀な石原莞爾を追放し、全部、服部卓四郎、辻政信だろ。

最悪の奴らが実権を握ってしまった戦争だったと思う。
なぜなら優秀な人材なら、まず参戦しないから。

強運ナポレオン

フランス革命に対しハプスブルク帝国、イギリス、プロイセンなどが干渉してきたことでフランス革命政府が宣戦布告。
第一次対仏大同盟が結成された。

この時、26歳のナポレオンはイタリア遠征の軍司令官に任命され、ハプスブルク帝国に勝利する。
フランスはカンポ=フォルミオの和約でハプスブルク帝国の領土だった北イタリアを領有する。

さらにイギリスのインド支配を妨害するためにエジプト遠征を行う。
エジプト遠征ではオスマン帝国軍には勝利したが、アブキール湾の戦いではイギリスのホレーショ・ネルソン海軍元帥に敗れ苦境に陥る。
北イタリアは再び、ハプスブルク帝国のものになる。
そして第二次対仏大同盟が結成される。


エジプトでの苦戦中、ナポレオンはしばらくエジプトに駐留するが総裁政府の危機で1799年10月に逃げるようにパリに戻り、11月9日にはブリュメール18日のクーデターで見事、実権を握る。
この時、ナポレオン30歳にして第一統領となった。


強運、ナポレオン


激動のフランス革命期の時代にハマった英雄なんだな。
更にライバルがことごとく若死にしている。

 

そしてイタリア戦役の敵、オーストリアと北イタリアを遮断するためスイスのジュネーブに兵を進める。


⚫味方のライバル
ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー将軍。
ナポレオンがエジプト遠征で不在中、シエイエスタレーランはモロー将軍を擁立しクーデターを起こそうとした。
しかし、急きょエジプトからナポレオンが帰国したため御株を奪われた。

これが後にあわよくばナポレオンを抑えて自分が上に立とうとするライバル意識に発展した。

そして起こった大事件、1800年のクリスマスイブの地獄の仕掛け事件。

ナポレオンがジョゼフィーヌと馬車でオペラ座に向かう途中、爆弾が爆発。
ナポレオンが通り過ぎた直後の危機一髪だった。

ナポレオン、ケネディ大統領より強運なんだな。

数年後になってこの時の事件の嫌疑をかけられモロー将軍はアメリカに亡命。

それからモローはロシア皇帝アレクサンドル1世に招かれ、1813年のドレスデンの戦いではロシア軍としてナポレオンと戦う。
しかし、砲撃により両足を負傷、切断した後に死亡。享年50。


やはり、ヨーロッパだからってロマンチックじゃない、戦争だ(泣)。


ドレスデンの戦いの後、ナポレオンは降伏しエルバ島に流されるのに、モロー将軍はナポレオンと反対に、ことごとくついてないな。


このモロー将軍、イタリア戦役の時はドナウ方面軍を任されていたがドナウからイタリアに向かうナポレオンの正面突破の作戦に反対し兵を動かさなかった。
海路はイギリスに包囲させている。
仕方なくナポレオンはアルプス山脈を越える作戦を余儀なくされた。

しかし、1800年5月、37000人の兵を率いて見事にサン=ベルナール峠を越えるアルプス越えを達成。


「余の辞書に不可能の文字は無い」(笑)


アルプス越えの後、ミラノからオーストリア軍の背後を襲撃。
更に北イタリアにも先にマッセナを港町ジェノバに派兵していたがマッセナは籠城中に陸はオーストリア、港はイギリスにと敵に完全包囲されていた。

 

⚫味方の味方
ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー

ドゼーの肖像画はスゴい。
鋭角的な高い鼻筋の美青年。


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ジェノヴァに篭城するマッセナ元帥の部隊は持ちこたえず開城し降伏。オーストリア軍は一時、戦勝気分でトリノに集結していた。
ナポレオンはジェノバに向かう途中、マレンゴでオーストリア軍と鉢合わせに。

しかし、ナポレオンはオーストリア軍主力はトリノに集結していると誤認していた為、兵力ではオーストリア軍31000に対して23000と劣勢。

ドゼーにはトリノに進軍するよう命じていた。
しかし、ドゼーがトリノに向かう途中、マレンゴの方向から銃弾の音が聞こえ


あ、ワーテルローグルーシーと同じ(笑)。


機転が利くドゼーは伝令からの知らせでもって神速にマレンゴに到着し、逆転した。
しかし、ドゼー戦死。享年32。


またもやナポレオン危機一髪の勝利。


ナポレオンが後に
「ドゼーは私の最良の将軍であり、次がクレベール、おそらくランヌが三番目だ。」
と語った。
3人共、亡くなりましたね。


⚫最優秀の部下
ジャン・ランヌ元帥は言わずもがなナポレオンが皇帝になってからの一番の部下。やはり宿敵オーストリアとの戦いで1809年に戦死。享年40。ランヌも脚切断の後に(泣)。

⚫エジプトを押し付けられた部下
ジャン=バティスト・クレベールはフランス革命の共和派の軍人でナポレオンに見出だされエジプト遠征に同行。
ナポレオンがブリュメール18日のクーデターでフランスに帰国した後の総司令官を任された。
その時、捕虜の扱いが悪かったせいでかカイロで暗殺された。享年47。

 

 

フランス海軍の駆逐艦にモガドール級大型駆逐艦というのがありクレベール、ドゼーの名前の艦が建造予定だった。
他はマルソー、オッシュという駆逐艦と4隻。
4隻共、フランス革命期、ナポレオンと同時期の軍人の名前。

1939年に第二次世界大戦が勃発し、建造が中止されたとか。

⚫オッシュ
ルイ=ラザール・オッシュもまた、フランス革命期の共和派の軍人でナポレオンのライバル。30歳で病死。

⚫マルソー
フランソワ・セヴラン・マルソー・デスグラヴィエ将軍、フランス革命の共和派の軍人、享年27。

 


ドイツなら戦艦シャルンホルストグナイゼナウがあるが、クレベールとドゼーが生きていたら、ドイツ参謀本部みたいな組織力を発揮する名コンビでナポレオンを上手く補佐したかも知れない。

ナポレオンの強運と、この二人を失ったゆえに後の悲劇ロシア遠征ワーテルローが偲ばれる。

 


⚫初代フランス皇帝
ナポレオン・ボナパルト
フランス革命の混乱に乗じて軍事独裁政権を樹立。
1804年12月2日、戴冠式にて初代フランス皇帝に
1815年6月18日のワーテルローの戦いに敗戦しセントヘレナ島への流刑罪に処される。
6年間過ごし1821年5月5日、死去。享年51